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ビロード革命(ビロードかくめい、チェコ語: sametová revoluce、チェコ語発音: [ˈsamɛtovaː ˈrɛvolut͡sɛ]、英語: Velvet Revolution)は、1989年11月17日にチェコスロバキア社会主義共和国で勃発し、当時のチェコスロバキア共産党による全体主義体制を倒した民主化革命である。スロバキアでは静かな革命(スロバキア語: nežná revolúcia、英語: Gentle Revolution)と呼ぶ。
ビロード革命 | |||
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東欧革命内で発生 | |||
プラハでのデモ活動(1989年11月25日) | |||
日時 | 1989年11月17日 – 1989年12月29日 (1ヶ月1週5日間) | ||
場所 | チェコスロバキア | ||
原因 | 政治抑圧、権威主義、景気低迷、マルチン・シュミードの死亡疑惑 | ||
目的 | 共産党政権の退陣、民主主義と自由選挙、公民権、経済改革 | ||
手段 | 市民的不服従、市民抵抗運動、デモ活動、ストライキ | ||
結果 | チェコスロバキアでの共産主義体制崩壊 | ||
参加集団 | |||
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指導者 | |||
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この革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。
第二共和国時代の1939年11月17日、ドイツによるチェコ占領に反対するデモがドイツ軍によって鎮圧され、学生9人が死亡した「大学閉鎖事件」が発生し、第二次世界大戦後のチェコスロバキアではこの日を「国際学生の日」として祝日としていた。事件から50周年にあたる1989年11月17日、プラハで反体制学生デモが実行され、これを治安部隊が鎮圧したことを発端とし[1]、これに抗議し民主化を求める国民の大規模なデモが同年12月にかけて発生。チェコスロバキア共産党の幹部総辞職による共産党政権崩壊と非共産党政権への平和的移行が行われた一連の出来事を指す。
チェコスロバキア共産党による11月28日の政権独占放棄および一党独裁制解消の公表と、11月30日の連邦議会によるチェコスロバキア社会主義共和国憲法からの一党独裁条項削除を経て、同年12月末のアレクサンデル・ドゥプチェク連邦議会議長・ヴァーツラフ・ハヴェル大統領就任をもたらした。
さらにこの体制転換を契機に進められた、連邦を構成するチェコ、スロバキア両共和国への大幅な権限委譲が背景となり、1993年1月1日の連邦制解消につながった(ビロード離婚)。
チェコスロバキアでは、チェコスロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクを中心とした改革運動「プラハの春」が、ソビエト連邦を中心としたワルシャワ条約機構の軍事介入で潰された1969年以降、グスターフ・フサークの下で「正常化」路線が進められ、改革派の共産党員除名や反体制派とみなされた国民が職場からの追放が行われた。また、1977年1月に憲章77を発表したグループに関わった知識人は、内務省国民保安隊(SNB : Sbor národní bezpečnosti)の秘密警察機関、国家保安部(StB : Státní bezpečnost)による弾圧を受けた。
この間、チェコスロバキア国民の生活水準は、他の東欧諸国より恵まれていたとはいえ、東欧市場の停滞の影響を受けて西側諸国に比べ低い状態が続いていたため、国民の間では不満が高まっていた。
1985年、ソビエト連邦のペレストロイカ開始を受け、チェコスロバキアでも改革の機運が高まり始めた。フサークは当初、表面上改革開放路線を支持しつつも、国内では強権的な姿勢を崩さなかった。フサークは1987年、党第一書記職をミロシュ・ヤケシュに譲り、省庁が持っていた企業経営権を企業側に移す国営会社の国有会社化など、一定程度の経済改革と民主化を認める方向を打ち出したものの、フサークは大統領として引き続き実権を握り、国内の体制維持と反体制派の弾圧・検挙を続けた。
しかし1989年8月19日、既に民主化を進めていたハンガリーで汎ヨーロッパ・ピクニックが成功すると、オーストリアに隣接するチェコスロバキアにも西ドイツへの越境を求める東ドイツ市民が大量に流れ込み、プラハ市民は西ドイツ大使館内にあふれる数千人の東ドイツ市民を目撃するようになった。10月18日、東ドイツで強権的な体制を敷いていたエーリッヒ・ホーネッカードイツ社会主義統一党書記長が失脚したことを受け、チェコスロバキア当局は東ドイツとの関係悪化におびえながらも、11月3日には西ドイツの求めに応じ、東ドイツ市民の西側への輸送を開始した。
ハンガリーに続いてチェコスロバキアが「鉄のカーテン」の撤去に踏み切ったことで、11月9日には冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊した。その後11月16日までには、チェコスロバキア周辺のほとんどの共産党国家が、共産党一党独裁支配を放棄し始めた。
チェコスロバキア国民は、これら一連の動きを国内外のテレビ放送を通じてすべてリアルタイムで把握しており、反体制派の市民らは民主化デモの準備を進めた。このうちプラハ市内の大学生でつくる「独立学生協会ストゥハ」(Nezávislé studentské sdružení STUHA)の急進派学生たちは、1939年にドイツによる占領への抗議デモに参加しドイツ軍に殺害されたカレル大学学生を追悼する祝日「国際学生の日」(11月17日)の50周年記念日を狙い、正規の追悼デモを主催するチェコスロバキア共産党の青年組織・チェコスロバキア社会主義青年同盟(SSM)のプラハ市委員会とも秘密裏に連携し、反体制デモの実施を計画した。
大学生や国立劇場俳優のストライキはこのあと12月29日まで続いた。この間、チェコスロバキア共産党と「市民フォーラム」および「暴力に反対する公衆」による実務者協議が始まり、円滑な体制転換についての折衝が重ねられた結果、共産党の一党独裁放棄と複数政党制の導入を行うことで双方が妥結。複数政党制による連邦議会総選挙の結果、チェコでは「市民フォーラム」が、スロバキアでは「暴力に反対する公衆」が第一党となり、ドゥプチェクが連邦会議議長、ハヴェルが大統領に就任し、12月に非共産党系による新政権が発足した。
一方同月には、治安部隊によるプラハ市内のデモ隊弾圧の容疑でプラハ市共産党委員会の元第一書記、ミロスラフ・シチェパンが逮捕され、かつて政治犯としてハヴェルが収監されたことがあるチェコ・プルゼニ市近郊のボリー収容所に収監された。のちにシチェパンは1988年に行ったデモ弾圧の権力乱用の罪で、懲役2年6月の判決を受けた[2]。
革命の副産物として、1948年の共産化以来チェコスロバキアを離れていた名指揮者のラファエル・クーベリックが、ハヴェルの強い要請を受けて帰国した。クーベリックは当時持病の関節炎や痛風の悪化に加え、作曲家としての活動に専念するため指揮者としては引退していたが、1990年のプラハの春国際音楽祭でスメタナの「わが祖国」全曲をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して演奏し、奇跡の復活を遂げた。なお、この際にクーベリックはチェコ・フィルハーモニー交響楽団から終身名誉指揮者の称号を授与されている。
全体主義体制を敷いた共産党政権が崩壊した後のチェコスロバキア連邦議会では、連邦国家の枠組みに対するチェコ人議員とスロバキア人議員の認識の相違が表面化した。
それまで形式的存在に過ぎなかったチェコとスロバキアの両共和国政府が連邦政府からの権限委譲を受けて存在感を増す中、チェコスロバキアを「一体不可分の単一国家」とみなすチェコ人議員と、「対等な2国による連合国家」とみなすスロバキア人議員の間で国名の変更や市場経済への移行政策などをめぐって主張が対立した。
しかし1992年の連邦議会総選挙後、チェコではヴァーツラフ・クラウス率いる市民民主党が、スロバキアではヴラジミール・メチアルの民主スロバキア運動が第一党となり、連邦解消をめぐり政界内で議論が繰り返された結果、クラウスとメチアルのトップ会談を経て1993年1月1日午前0時にチェコ共和国とスロバキア共和国による連邦制は解消された。連邦解体の過程で内戦になったユーゴスラビアと対照的に、チェコとスロバキアは平和的に分離したことから民主化時の「ビロード革命」にちなんで「ビロード離婚(velvet divorce)」と呼ばれることがある。
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