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仁宗(インジョン、じんそう、1515年3月10日 - 1545年8月8日)は、李氏朝鮮の第12代国王(在位:1544年 - 1545年)。諱は峼(山偏に告)。字は天胤。諡は栄靖献文懿武章粛欽孝大王。
中宗と章敬王后尹氏の子として1515年に誕生。同母姉に孝恵公主、異母弟に明宗らがいる。1520年に王世子に冊立され、1522年に成均館に入学して儒学を修めた。
彼は静かな性格で兄弟愛が強く、姉の孝恵公主が死去した際には悲しみで病床に臥し、中宗が病気になると自ら毒味し、冬の寒さの中で沐浴斎戒して夕方から明け方まで父の回復を祈った。しかし、義理の母の文定王后尹氏は意地悪く猜疑心の強い女性であったため、仁宗を非常に苦しめ、何度も火事などで殺されそうになる。
1544年11月に中宗の薨去に伴い即位し、父が在世中に改革を試みたが果たせず、遺物として残っていた宮中の腐敗を撤廃しようと試みた。その中には中宗時代に趙光祖の提案によって設置され、一度は廃止されていた賢良科(科挙によらない人材登用制度)の復活も含まれる。しかし生来父に輪を掛けて病弱であった仁宗は、在世中も病のために、十分には政務を果たすことができなかった。
1545年、即位から8ヶ月後に薨去した。陵墓である孝陵が京畿道高陽に設けられた。死後、異母弟である慶源大君が第13代国王明宗として即位した。
仁宗が手がけようとした政治改革は、多くの家臣たち、特に仁宗の義理の母の文定王后の弟の尹元衡に警戒された。仁宗の死後、実母の章敬王后の兄である尹任をはじめとする「大尹派」と、文定王后の兄である尹元老・尹元衡をはじめとする「小尹派」との勢力争いが起こり、敗れた尹任は1545年に賜死された(乙巳士禍)。
11中宗━┳12仁宗 ┣13明宗 ┗徳興大院君━━14宣祖
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