Loading AI tools
1953年に京都府南部で発生した水害 ウィキペディアから
南山城水害(みなみやましろすいがい)とは、1953年(昭和28年)8月14日から8月15日にかけ、京都府南部(綴喜郡および相楽郡)において、集中豪雨が原因となって木津川の支流で発生した水害である。
1953年8月14日から15日にかけて、南山城地域は、寒冷前線が停滞したことを原因とする集中豪雨に襲われた。雨は14日夕刻から降り始め、15日未明には雷を伴う豪雨となり、山間部では400ミリを越える記録的な雨量となった。
この雨は各地で山崩れを引き起こし、大量の流木を含む土石流が発生。多くの溜池や木津川支流の堰堤、堤防が決壊した。井手町では、玉川上流にある溜池の、大正池と二ノ谷池の決壊によって土石流が引き起こされ、下流の玉川も決壊した。のちの山城町(現在は木津川市)に当たる地域[1]では、不動川や鳴子川が決壊し、和束町では、和束川が氾濫し大きな被害を出した。
「集中豪雨」という言葉が使われたのはこの時の新聞報道の見出しが初出であるとされる[2]。
8月14日、夕刻頃から小雨であったが、22時か23時より強雨となり、8月15日に日付が変わった頃、雷鳴を伴う豪雨となった[4][5]。午前2時半頃から才田川で最初の決壊、井手町においては低地での浸水が始まった。午前3時頃より玉川下流の右岸(北側)で、下流から順に越流・決壊が発生し始めた[6]。そこへ、午前4時頃、上流にある農業用ため池(大正池・二の谷池)がほぼ同時に決壊し、山津波が発生。これにより玉川の上流でさらなる決壊が発生し、井手町は甚大な被害に見舞われることになった。
井手町玉水地区は木津川堤防、玉川堤防、多賀=谷川の堤防という3方を堤防で囲まれており、典型的な内水水害地区(うちみずすいがいちく)となっていた。そのため、ほかの被災地区では早期に排水が進んだのに対し、この地区は災害後数日たっても水位が下がらず、しかも行方不明者の多くがこの地に流れ着くという状況が発生していた[7]。
この水害や、その後の台風13号によって、南山城地域は甚大な被害をうけた。人的被害は、死者行方不明者が336人、重軽傷者が1366人の計1702人に、住宅被害は、全壊が371戸、流失が381戸、半壊が554戸、床上、床下浸水は4370戸、計5676戸に及んだ[9]。
この水害による物的災害総額は約150億円、復旧額は約134億円と公式発表されている。
中でも井手町は、人的被害、住宅被害のいずれも南山城地域の中で最大の被害を受けた。井手町の人的被害は、死者行方不明者が108人、重軽傷者が428人の計536人、住宅被害は、全壊が107戸、流失が166戸、半壊が147戸、床上床下浸水は357戸、計777戸に及んだ。
この地域を走る日本国有鉄道線(関西本線・奈良線)は大きな被害を受け、玉水駅・大河原駅では駅舎が流失した[11]。また木津川に架かる玉水橋も橋脚に堰き止められた流木が原因で流失した[9]。
8月の水害では、当時は珍しかったブルドーザーやクレーン車が使用され、各河川の応急工事が進んだ。8月15日未明には災害救助法の適用が決定され、同時に救援活動、応急復旧作業が開始された。16日には、交通が遮断された和束町や南山城村、童仙房地区へはアメリカ海兵隊のヘリコプターによる救援物資の運搬も実施された。18日からの物資として、塩や米、野菜類が記録されている。野殿区から、被害の甚大であった童仙房の牛馬地区へ救援物資が運ばれた。野殿区には、水害発生からの復旧活動の日誌が残されており、区民が復旧活動を行ったことが記されている。9月には奈良線・関西本線の運転が再開された。玉水駅のホームには、玉川から流れ着いた巨石が記念に残されている。
1954年には水難者記念塔が建立された。
流失した玉水橋の再建は、1956年11月に完了。大正池と二ノ谷池の跡地には、「淀川水系改修基本計画」によって改めて大正池が造成され、1960年に完成した。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.