呂二十九型潜水艦
日本の潜水艦の艦級 ウィキペディアから
日本の潜水艦の艦級 ウィキペディアから
呂二十九型潜水艦(ろにじゅうきゅうがたせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。特中型(とくちゅうがた)、もしくは海中5型(かいちゅうごがた)とも呼ばれる。同型艦4隻。
第一次世界大戦でUボートが通商破壊によって大きな戦果を挙げたことからそれにならって通商破壊を主眼において設計された。機関出力を半減し、速力を13ノットで我慢した代わりに、航続力を前型(海中4型)の1.5倍の9,000海里(10ノット時)とした。また海中型の系列で本型だけ12cm砲を装備したのも通商破壊戦を前提にした装備と言われる。
1918年(大正7年)度の八六艦隊案により全部で4隻が建造され、1923年から翌年および1927年に就役した。このうち呂31は竣工前の公試運転中に事故により沈没し、代艦が改めて建造された。
呂29は太平洋戦争開戦5年前の1936年(昭和11年)に除籍された。呂30、呂32は開戦後の1942年(昭和17年)に除籍。その後は大竹の海軍潜水学校で訓練用に係留され、戦後解体。呂31は開戦時は老齢のため予備艦だったが、1942年(昭和17年)8月には米機動部隊来襲に備え犬吠埼沖に配備されたこともあった。1945年(昭和20年)5月に除籍され、戦後海没処分された。
1924年(大正13年)11月1日に「呂号第~潜水艦」と改名。
呂29型潜水艦は先に竣工した呂29、呂30、呂32で1個潜水隊を編成し、佐鎮の固有番号を与えられて第25潜水隊を編成した。第21潜水隊は後に竣工した呂31を編入して4隻編成となっている。
佐世保鎮守府籍の呂29・呂30で編成。その後遅れて竣工した呂31・呂32を編入した。当初は馬公要港部に配置され、有事には通商破壊に着手できるように配慮されていた。早期に巡潜型の就役が始まったため艦隊には編入されなかった。速力が13ノットにとどまったため主に警備に使用された[3]。隠密行動が身上の潜水隊でも謎の部隊で、昭和9年以降の消息が不明瞭となっており、所属艦の除籍により昭和17年4月1日に解隊されたとされる。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.