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呂号第三十一潜水艦
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呂号第三十一潜水艦(ろごうだいさんじゅういちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂二十九型潜水艦(特中型、海中5型)の3番艦。当初の艦名は第七十潜水艦。
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艦歴
1921年(大正10年)9月25日、川崎造船所で起工。1923年(大正12年)2月15日進水。
同年8月21日、公試中に淡路島仮屋沖2海里の地点で事故のため沈没した[2]。公試を終えて浮上後、タンクの排水中に突如艦が沈没したというもので、艦外に出ていた艤装員長他4名を除く88名が死亡した[5]。死者のうち42名は川崎造船所の所属であった[6]。ベント弁の誤開放により海水がタンクに逆流して艦は沈み始め、さらにポンプ排圧の急落が故障と判断されて排水ポンプが止められたようで、ポンプ停止により流入量が増加[6]。ハッチが開放されていたため艦内に浸水し沈没したのであった[6]。
同年10月24日に浮揚され、一旦解体して、1924年(大正13年)12月20日に再起工。1926年(大正15年)9月25日に進水し、1927年(昭和2年)5月10日に竣工し、呂号第三十一潜水艦と命名され二等駆逐艦に類別[1]。速力が13ノットに留まり、鎮守府の警備艦に配属された[7]。1938年(昭和13年)6月1日、艦型名を呂三十型に改正[8]。
太平洋戦争では日本近海の作戦に参加[2]。1944年(昭和19年)1月31日予備艦となり、1945年(昭和20年)5月25日に除籍。終戦時は内海西部に船体残存[1]。1946年(昭和21年)4月5日、向後岬沖で米軍により海没処分となる[2]。
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歴代艦長
※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
艦長
- 吉富説三 少佐:1927年5月10日 - 1928年5月16日
- 中島千尋 少佐:1928年5月16日 - 1929年11月1日
- 阿部信夫 少佐:1929年11月1日[11] - 1930年12月1日[12]
- 寺岡正雄 少佐:1930年12月1日[12] - 1932年10月5日[13]
- 都築登 大尉:1932年10月5日[13] - 1934年3月20日[14]
- (兼)江見哲四郎 大尉:1934年3月20日 - 11月1日
- (兼)中川肇 大尉:1934年11月1日[15] - 1934年12月15日[16]
- (兼)吉村巌 中佐:1942年1月15日[17] - 1942年1月31日[18]
- 下瀬吉郎 少佐:1942年1月31日[18] -
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脚注
参考文献
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