Loading AI tools
日本の彫刻家 ウィキペディアから
土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1977年1月11日[1])は、日本の彫刻家・民俗学者。パラオなど広く南洋に取材し、民族学的資料を多く残すとともに、芸術作品のテーマとして作品を残した[1]。
1900年(明治33年)7月13日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1]。父は陸軍砲兵大佐の土方久路、伯父は伯爵・土方久元、母方の祖父は海軍大将・男爵・柴山矢八、築地小劇場の演出家・土方与志(本名は久敬)はいとこ甥に当たる[2]。
旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父の病気退職による経済的理由から1919年(大正8年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科に入学する[3]。三沢寛、林謙三、小室達、岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍した[2]。1924年(大正13年)、同学を卒業[4]。同年、土方与志が築地小劇場を設立、同劇場の「葡萄の房」章は久功がデザインしたものである[2]。
1929年(昭和4年)、パラオに渡り[1]、公学校(現地住民の初等教育学校)の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査する[2]。1931年(昭和6年)、ヤップ諸島の最東端・サテワヌ島(現在のサタワル島)に渡り、7年間を同島で過ごす[2]。1939年(昭和14年)、パラオに戻り、コロールにおかれた南洋庁に勤務する[2]。トラック諸島(現在のチューク諸島)、ポナペ島(現在のポンペイ島)、クサイ島(現在のコスラエ州)、ヤルート(現在のジャルート環礁)、サイパン島、ロタ島を引き続き調査する[2]。1942年(昭和17年)、小説家の中島敦とともに帰国した[2]。同年、ボルネオ調査団に参加し、同年から日本が統治した北ボルネオを調査した[2]。
1944年(昭和19年)、病を得て帰国、岐阜県可児郡土田村(現在の同県可児市土田)に疎開する[2]。第二次世界大戦終了後、1949年(昭和24年)、東京都世田谷区に移転、彫刻家となる[2]。
『サテワヌ島民話』(1953年)は、土方が文字を持たないサテワヌ島で民話を採録しローマ字表記と日本語対訳を収録したもの。彫刻家としての制作の傍ら、「非詩集ボロ」(1955年)「青蜥蜴の夢」(1956年)などの詩集も刊行。土方はまた、福音館書店の編集者松居直に是非にと請われて、1963年から1975年にかけて月刊絵本こどものともで計4冊の絵本を手掛けている[5]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.