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朝鮮第22代王・正祖の妻 ウィキペディアから
孝懿王后 金氏(こういおうこう きんし、ヒョウィワンフ キムシ)は、李氏朝鮮第22代国王である正祖の正妃。本貫は清風金氏。
清原府院君金時黙と、その妻の唐城府夫人南陽洪氏の娘として生まれる。父の金時黙は顕宗の王妃であった明聖王后と親戚(金時黙の高祖父の金佑明は明聖王后の父)であった。清風金氏より世孫嬪(王の跡継ぎにあたる孫の正室)を、との英祖の意向により世孫の李祘の正室に選ばれ、離宮に入宮したが、天然痘を患ったため回復を待った後、乾隆27年(1762年)2月、10歳で李祘と結婚して世孫嬪に冊封された。金氏の従姉妹は李祘の実母の恵慶宮洪氏の弟の洪楽倫と結婚し、王室と二重三重の姻戚関係を持つこととなった。
乾隆41年(1776年)、夫の李祘が即位して正祖となったことに伴い王后に冊封された。正祖との間に子がなかったため、後宮のひとり綏嬪朴氏が産んだ李玜(後の純祖)を養子とした。嘉慶5年(1800年)に正祖が薨去した後は王大妃となった。
生前の金氏には尊号を与える話が多くあったが、これらを全て拒絶していた。道光元年(1821年)に69歳で薨去した後、水原(現在の華城市)の健陵に埋葬された。また尊号として「睿敬慈粋孝懿王后」が追贈されたが、後に「荘徽」も追贈されて「荘徽睿敬慈粋孝懿王后」となった[2]。光武3年(1899年)には正祖が高宗より「正祖宣皇帝」と追尊されたことに伴い、「宣皇后」と追尊された[3]。
知性では姑の恵慶宮洪氏をも凌ぐと言われ、宮中で感心されていたという[1]。また孝心が篤く、義祖母にあたる貞純王后や姑の恵慶宮洪氏によく仕えたので、宮中で感嘆しない人がいなかったと伝えられる。義父の妹である和緩翁主のいびりも物ともしなかった。義理の妹にあたる清衍郡主や清璿郡主とは仲が良く、清璿郡主の死後はその子女の面倒も見た[1]。
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