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攣鞮氏・攣鞮部(れんてい し/れんてい ぶ、拼音:Luándī shì/Luándī bù)は、紀元前4世紀から2世紀に中央ユーラシアに存在した遊牧国家匈奴の君主である単于を輩出した氏族。『後漢書』では虚連題氏(きょれんていし、拼音:Xūliántí shì)と表記された。南匈奴の中心種族である屠各種の直系で、南匈奴が崩壊すると中国風の劉氏に改姓した。独孤部・鉄弗部とは同族である。
匈奴の君主号は単于(ぜんう)[1]といい、中国でいう皇帝にあたる。攣鞮氏はその単于を輩出する匈奴の中心氏族であり、最も勢力と権力を持った集団であった。攣鞮氏からは君主である単于の他、左右の賢王(屠耆王)・左右の谷蠡王(ろくりおう)・左右の大将・左右の大都尉・左右の大当戸・左右の骨都侯が選出され、国の大部分を領し、国の重役を担った。このうち、左賢王が皇太子の役割を持ち、たいてい左賢王だった者が次の単于となる。しかし、父子相続か兄弟相続かでたびたび後継争いが起き、国の政治を傾けることがあった。事実、それが原因で匈奴は南北に分裂してしまう(48年)。分裂後、南匈奴の氏族は虚連題氏(きょれんていし)と記されるようになるが、後には南匈奴の祖先の冒頓単于の代より匈奴と漢宗室との間に姻戚関係があることに因んで漢族風の劉氏を名乗った。これにより南匈奴の宗室たる攣鞮氏は次第に漢化していくことになり、実際、劉淵は後漢および蜀漢の後継者を称して漢(後の前趙)を興した。このような流れの中で虚連題氏という名は完全に消滅し、以降は劉氏として五胡十六国時代を迎えることになった。
匈奴の単于は代々攣鞮氏(虚連題氏)によって世襲された。また、「単于」という君主号が頭曼以前からあったものなのか、頭曼から称すようになったのか、それとも冒頓から称すようになったのかは不明である。
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