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時間の1区切り ウィキペディアから
時代区分(じだいくぶん)とは、過去を予め定められた一定数の個々の時間のブロックへと分割する過程、あるいはその研究のことである[1]。これは史学の研究分析を容易くするために行われる。分割された時間にはその時代に継続的に現れる相対的特徴に基づき利便的な用語が付され、結果としてその時代を叙述する抽象概念が生まれる。しかしながら、たいていの場合において、期間の正確な最初と最後を定めることは恣意的である。
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 (2018年5月) |
歴史とは連続的で即断できないものであるから、あらゆる時代区分の方法は大なり小なり恣意的とならざるを得ない。しかし、それがどんなに不出来で不正確なものであろうと、時間が区分され名を与えられないならば、過去は単に散らばった事象に過ぎず、私たちが理解できるような枠組みを持たないであろう。民族、文化、家族、そして個人でさえもそれぞれが異なった歴史を持っており、多くの場合非体系的ではあるが、現代という枠組みと重複している。そして、時代の名称は常に疑問を投げかけられ修正されていく。しかし、いったん確立した時代の名称は利便性が高いので、それを変えることは多くの場合困難である。
時代区分の起源は古にまで遡ることができ、その始まりは古代ギリシアや聖書などといった西洋の伝統にある。ウェルギリウスは遠い過去の黄金時代や歴史の循環について言及しているし、聖書では天地創造から世界の終焉までの物語を概説している。中世に広く用いられた聖書に由来する時代区分の枠組みの一つに、パウロによる神学的な時代区分がある。それは3つに時代を区分するものであり、一つ目がモーセ以前の時代(自然による統治)、二つ目がモーセの律法下の時代(法による統治)、そして三つ目がキリストの時代である(恩寵による統治)。しかし、中世に最も広く議論された時代区分の枠組みは歴史を6つに分ける枠組みであるかもしれない。それにおいては、アダムとイヴの時代から現在に至るまでが数千年単位で分割され、現在(中世)こそが6番目の時代であり、なおかつ最後の時代であると唱えられた。
区分された時間のブロックは重なり合っているだけでなく、互いに対立し、矛盾し合っている。文化的な用法をする者もいれば(アメリカ合衆国の「金ぴか時代」など)、著名な歴史上の出来事を目印にする者もいる(1918年〜1939年にかけての「戦間期」など)。また、十進法に基づき時代区分をする者もいる。 ("1960年代"や 「17世紀」など)。他にもその時代を象徴する人物の名に因んで時代名とする場合もある(「ヴィクトリア朝」や「ナポレオン時代」など)。
これらの用法は時として特定の場所に限定される。このことは、時代名を個人や支配的な王朝名に因んで名付けるときに強く当てはまる。例えばアメリカ合衆国のジャクソニアン時代や、日本の明治時代、あるいはフランスのメロヴィング朝時代などがある。文化的な側面に着目した時代名も、汎用性に限界があることが多い。「ロマン主義時代」という概念は、西洋の外側ではほとんど意味をなさないだろう。同様に、「1960年代」という概念も西暦に基づいて技術的には世界中で通用するものの、ある国において、もしくはある場合においては言外の文化的意味を帯びることもある。このような理由から、「まだスペインに1960年代は到来していない」といった主張をすることも可能であるといえる。これはつまり、性革命やカウンターカルチャーなどといった若者の反乱などが1960年代のスペイン(当時スペインは保守的なローマ・カトリックの影響が強く、またフランシスコ・フランコによる独裁政権が君臨していた)では発達しなかったということである。同様の例として、歴史家アーサー・マーウィックが主張するように、「1960年代」は1950年代末から始まり、1970年代初頭に終わったということも可能である。彼がこのように述べたのは、文化的・経済的状況の方が1960年〜1969年という10年の区切りよりも時代の本質的意味を反映していると考えたためであろう。これは「長い60年代」という用法にまで拡張されている。この用法は、歴史家エリック・ホブズボームが用いた「長い19世紀」(1789年〜1914年)という言葉に由来している。これは恣意的な年代表記法と有意義な文化的・社会的な相とのバランスをとろうと考えたためである。また、18世紀を1714年〜1789年とすることもある。また、エリック・ホブズボームは長い19世紀という言葉と対比的に「短い20世紀」という言葉を第一次世界大戦から冷戦の終結までの期間に対して用いている。
似たような問題が他の命名法によっても起こりうる。たとえば「ヴィクトリア朝」という用語をイギリス国外でも用いることができるだろうか。また、たとえイギリス国内であっても彼女が君臨した1837年〜1901年を有意義な歴史的期間としてよいのだろうか。この時代区分の名前が19世紀の後ろ3分の2の間の政治的、文化的、そして経済的特徴をよく表しているということを前提として、ヴィクトリア朝という用語は使われている。しかし、時代を区分する用語はしばしばその用法に影響を与えるような肯定的、あるいは否定的意味を内包している。「ヴィクトリア朝風の」という言葉は性的抑圧や階級闘争といった否定的な意味合いを持つだろう。他にも「ルネサンス」という用語には強い肯定的特徴が込められている。そのためこの用語は時折拡大解釈されることがある。イングランドのルネサンスはしばしばエリザベス1世が君臨した時代に対して用いられるが、それはイタリアのルネサンスからおよそ200年遅れて始まったものである。一方で 「カロリング・ルネサンス」という用語はフランク王国の王カール大帝が君臨した時代とその後継者の時代に対して用いられるが、それはイタリアのルネサンスのずっと前の時代のことである。他の例として、そのどちらも「復活」などとは呼べないものであるにも関わらず、「アメリカのルネサンス」という用語が1820年代から1860年代にかけてのアメリカ文学の興隆に対して主に用いられ、「ハーレム・ルネサンス」という用語が1920年代のアメリカの文学や音楽、美術に対して主に用いられている。
これらの非中立的な意味合いによって、ある時代がその名前ゆえに他の時代よりも良いものであるように見られることがある。しかしこれは以上の部分で概説したような問題を引き起こしうる。古代ラテンの学問の「復活」という概念は、イタリアルネサンス期の詩人にして人文主義の父ペトラルカ によって最初に生み出され、その概念はペトラルカ以後広く使われてきた。ルネサンスという用語が最も使われるのは、イタリアで起こり1500年~1530年頃に盛期を迎えた文化的変化に対して言及する場合である。当初この概念はほとんどの場合ミケランジェロやラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチらが活躍した視覚芸術の分野に対して用いられた。次にそれは他の芸術に対しても用いられるようになるが、それを経済、社会、そして政治の変遷を語ることにまで延長してよいのかについては疑問が残る。今では多くの歴史学者がルネサンスや宗教改革といった歴史的出来事が西洋における近世の始まりであると言及しているが、そのように言及されるようになったのは、その出来事が起こった時代よりずっと後になってからのことである。時代の命名法の変化と一致させるために、講義で教えられる内容は漸進的に発展し、歴史書が新たに出版されてきた。それらはある程度社会史と文化史の違いを反映している。新しい時代の命名はより広大な地理的空間をカバーするように意図されており、ヨーロッパとその他の世界との繋がりに目を向けるようになってきている。
ほとんどの場合、その時代を生きる人々には自分自身が歴史家たちが後に割り振る時代のどれに属しているのかを特定することができない。この理由の一つに、彼らは将来を予期することができないので、自分が時代の最初にいるのか、中間にいるのか、それとも最後にいるのかを見分けることができないということが挙げられる。また別の理由として、自身の歴史的感覚は宗教やイデオロギーの影響を強く受けているが、宗教やイデオロギーといった類のものは時代を命名する後の歴史家たちと異なってしまう、ということもある。
中世という用語もペトラルカに由来するものである。ペトラルカは自身が生きた時代と古代、特に古代ギリシア・ローマとを比較し、古代以降の暗黒時代といえる中世が終わり、自分が生きている時代は復活の時代へ突入しつあると捉えた。中世という概念は、古代と現代という二つの長い期間の間に位置する期間であることからその時生まれ、その概念は今まで使用され続けている。中世は更に中世前期・中世盛期・中世後期の3つに分割することができる。暗黒時代という用語も、一部の著述家はその否定的な意味合いを取り除きながら使用を続けていこうとしているが、中立的に用いることが困難なので、現代の研究者の間では使用を敬遠されている。「中世」という用語(特にmedievalという形容詞)も口語上では否定的な響きを含む(ほとんど中世と同様の野蛮な囚人の取り扱い方、などというように)。しかし、このような表現は決して学術用語としては使用されない。一方で、ゴシック建築は中世盛期の典型的な建築様式と言われているが、この用語の使用の際には中世という用語が本来持つ否定的な意味合いはほとんど失われ、新たな意味合いを段々と持つようになっていった(詳しくはゴシック建築やゴスの項を参照のこと)。
ゴシックとバロックという用語はどちらも、以前の建築様式の人気がなくなり次の建築様式が流行するようになった期間に名づけられた。「ゴシック」という言葉は軽蔑の意味を含んだ用語として、当時蛮族とみられていた北欧の人々に関する全てを指して用いられた。この言葉を最初に用いたのはジョルジョ・ヴァザーリであるといわれている。ヴァザーリは自身が芸術史家、芸術家、建築家として生きた時代のことを、初めて「ルネサンス」と表現した人物でもある。ジョルジョ・ヴァザーリは、特に建築の分野において、自分が異議を唱えたいものを表現すべく「ゴシック」という言葉を生み出した(おそらく彼は、それはまるでゴート人が建てたもののようだ、などと述べたのであろう。)。「バロック」という言葉は、ポルトガル語やスペイン語、フランス語に共通して見られる、「歪な真珠」という意味の語に由来している。その語が初めて宝石製造業界の外で使われるようになったのは、18世紀初頭の、音楽が過度に複雑化し雑になってきていると批判を受けた時代であるといわれている。後にその語は建築や美術の分野でも用いられるようになった。[2] バロック時代は初め19世紀のことを指すものであったが、現在では1600年前後に始まったものであると考えられている。音楽史においては、J. S. バッハが亡くなった1750年をもってバロック時代の終わりとするが、美術史家たちはバロック時代の盛期はほとんどの面においてずっと早く終わっていると考えている。
マルクス主義の唯物史観では、社会は基本的に「材料状態」によってどのような場合においても決定づけられるとする。言い換えれば、衣食住といった基本的な要請を満たすための生産関係のあり方によって定まるのだ。[3]概してマルクスとエンゲルスは、西欧の物質的状況の発達は5つの連続した発展段階に分けられると主張した。[注釈 1]
彼らの理論では、以下の5つの段階に分けられる。[4][5][6][7][8][9][10]
第一段階は大抵原始共産制と呼ばれているものである。それは以下のような特徴をもつ。
第二段階は奴隷制と呼ばれるものであり、「階級社会」の始まりであると考えられ、私有財産が現れ始める段階である。
第三段階は封建制と呼ばれるものであり、奴隷制社会が崩れた後に現れる。ローマ帝国の奴隷制社会が崩れた後に現れたヨーロッパの中世が最も明らかなその例であるといえる。
マルクスは人間社会の発達の中でも特にこの時代に大きな注意を払った。彼の研究の大部分は資本主義のメカニズムを分析することに捧げられた。資本主義は西洋社会において古来より、封建社会が革命的動きを持つようになった際に突如として現れ猛威を振るう。資本主義においては、利潤の追求こそが人々を支配し、農奴制は瓦解して、民衆は賃金を得るべく資本家の下で働くようになる。資本家階級は世界中で自分たちの意のままにレッセフェールの動きを推し進める。資本家によって制御された議会では、法律は富を守るために制定されるようになる。
資本主義は第四段階であると考えられている。それは資本家や商人の前身たちが封建制を放棄した時に、ブルジョワ革命を経て誕生する。資本主義は以下のように分類される。
しかしマルクスによると、資本主義は奴隷制社会や封建制と同様に致命的な欠陥を抱えている。それは内なる矛盾であり、これが資本主義の崩壊を生み出す。労働者階級というものは、資本家階級が商品の生産と利潤の追求のために生み出したものだが、資本主義の終焉をもたらす者たちでもある。労働者は自分たちが生産した価値に見合うだけの十分な報酬を得られない。マルクスが「労働者階級に支払われなかった報酬」と呼んだ残りの報酬は剰余価値として、資本家の利潤となる。資本家は自身の利潤を増加させるために労働者階級の賃金を下げる競争へと駆り立てられ、階級間の闘争を引き起こし、労働者階級の目覚めを誘引する。労働者階級は、労働組合やその他の方法を通じて、自身が搾取されている階級であると気づくこととなる。古典的マルクス主義の観点によると、資本家階級に対する労働者階級の抵抗は、やがて労働者階級が生産に関する全ての力を握ることへと集約される。
労働者階級が目覚めを経て資本家に対するプロレタリア革命を成功させると、社会主義という第五段階へ至る。
社会主義には以下のような特徴がある。
マルクスは共産主義の最初の段階が「社会主義」であると説明している。これは「経済的にも、道徳的にも、知的にも、古い社会から生まれた名残が未だに見られる段階」であり、労働者たちは自身の労働に応じて報酬を得るのを当然だと考えているが、各々の労働者の能力や家族の事情が異なっているために、結果として社会がどれほど労働者を支えても、不平等が発生してしまう段階である。
ヨーロッパ史学の時代区分が導入される以前に、現代の「戦国時代」が、当時の京都の公家たちに「戦国の世」と中国の春秋戦国時代をなぞらえて認識され呼ばれた[11]。さらにこの呼び名は広まり、武田信玄の『甲州法度次第』第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」と使用された。明治時代に西洋学問として歴史の時代区分法を知るが、1873年(明治6年)小学校参考書に先行的に「戦国時代」が使用された[12]。
明治時代の、歴史学における総合的な時代区分は、1903年(明治36年)内田銀蔵により西洋史学を当てはめる形式で、英語の歴史語モダンエイジを江戸時代だとして「近世」と訳し基点にした。そして江戸時代より前の時代はその時まで「近古」とされていたが英語の歴史語ミドルエイジを訳して「中世」と命名した。さらにその「中世」より前を一括して「古代」と名づけ、西洋史学三分法を適用して日本史三分法を提起した[13][14]。それが研究者たちに支持され近代を末に加えて、日本史学での日本史時代区分となった[14]。
考古学 における一般的な先史時代の時代区分は、材料文化や技術の変化に依拠している。石器時代や青銅器時代、鉄器時代といった区分や、その更に細分化された区分は、その時代の遺物の材料がどのように異なっているかに基づいた区分である。ここ数十年間の放射性炭素年代測定の発達や、他の科学的手段の発達によって、多くの遺跡や人工物についての正確な年代測定が可能となったが、これらの長期的な時代区分は今後も使用され続けると予測される。また、ある文字を持たない文化の歴史について、近隣の文字を持つ文化が書き残している場合が多くあり、それらが時代区分に使われる。
何らかの出来事や短期間における変化が文化に対して非常に大きな影響を与え、歴史に急激な変化を引き起こすことがある。これらの出来事や変化は、よく「~前」や「~後」(〜にはその出来事や変化の名称が入る)という語となって広く使われることが多い。例えば「宗教改革前」と「宗教改革後」という表現や、「植民地時代前」と「植民地時代後」といった表現がある。また、戦前と戦後という表現は第二次世界大戦の前後を指す表現であるが、将来的には第二次世界大戦という語を明示しなければならないように変わるかもしれない。
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