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浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月8日(1819年12月5日) - 明治25年(1892年)11月14日)は、江戸時代末期(幕末)の広島藩の筆頭家老、のちに神職。三原領主(3万石)三原浅野家第11代当主。第9代当主浅野忠順の子[1]。諱は初め忠助、のちに忠厚。通称は遠江、主殿、大和、飛騨、仲之丞。号は榎蔭。
天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に先代浅野忠敬が隠居し、忠敬の子浅野忠英は幼年だったため、家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航を期に、家老の上田主水、浅野豊後と連署した建白書を藩主浅野斉粛に提出し、辻将曹らとともに藩政改革を行おうとするが失敗した。そして安政2年(1855年)、藩主浅野長訓に執政更迭と改革派の登用を訴えたが、側近に阻まれ容れられず、翌安政3年(1856年)3月に病を理由として隠居を申し渡された。領地の三原に帰った忠は、時流に合わせて洋式の兵法を採用、砲台を築いた。その後、文久2年(1862年)10月より藩政に復し、軍制改革を行う。明治元年(1868年)5月、政事堂副総督となった。廃藩置県後の明治5年(1872年)厳島神社宮司となった。明治25年(1892年)、74歳で没した。
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