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戦国時代の武将、「蜷川親俊日記」 ウィキペディアから
蜷川親順の長男として誕生。はじめ室町幕府12代将軍足利義晴に仕え[1] 、13代将軍足利義輝の下では政所代を務める。丹波国船井郡桐野河内を領して蟠根寺城[2]に拠ったが、永禄5年(1562年)、上司でもある政所執事の伊勢貞孝・貞良父子が討たれると逼迫し、出羽国庄内藤島城主土佐林禅棟と庄内下向について計画を始める[3][4]。ただし、伊勢貞親父子が討たれた原因の1つとして貞親が職権を利用して不法に徳政免除を認定していた事実を親世が告発したからであるとする指摘もある[5]。やがて、永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に弑殺されると、ついに親世は所領を捨て逐電した。
その後出羽国寒河江荘の高松楯[6]主高松左門(高松氏)[7]を頼って落ち延びるが、出羽国村山郡金谷原(現寒河江市柴橋)で永禄12年(1569年)11月14日に死去、金谷原の土佐林に葬られた。親世の墓は土佐壇[8]と呼ばれている。
天文7年(1538年)から天文11年(1542年)までの直筆日記と、天文18年(1549年)から天文21年(1552年)まで残簡を含む「蜷川親俊日記」を遺した。
(斎藤利三の父母には諸説ある)
斎藤親三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蜷川親順 | 親世 | 親長 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
親満 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明智光安妻 | 女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎藤利賢 | 石谷頼辰 | 女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎藤利三 | 春日局 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 | 斎藤親三 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石谷光政 | 長宗我部信親 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長宗我部元親 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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