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道饗祭(みちあえのまつり、ちあえのまつり)とは、神道祭祀の1つ。上代から毎年6月と12月の2回、都の四隅道上で、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)の3柱を祀り、都や宮城の中に災いをもたらす鬼魅や妖怪が入らぬよう防ぎ、守護を祈願する神事、および神社の祭[1]。令制祭祀としては京都が中心だったが、疾疫が起こった時は地方でも斎行した[2]。例えば、武蔵国では、饗庭(あえば)という地名や氏名が多いが、柳田國男は『地名の研究』(角川文庫 九版1974年 p.216)において、道饗祭=邪神祭却に由来するものであり、北武蔵の「アイノ田」「間の田」に関しても、「饗場の田」に由来すると推測している(同書 p.216)。
令の編目の一、神祇令に定められた恒例の祭典である[2]。平安時代成立の法令集『延喜式・第一巻』(藤原時平/藤原忠平ら編集)6月祭条に記され[3]、小祀に区分する[注 1][4]。左右京職が司り、卜部(うらべ)氏がはらえを務めた[5]。律令時代京都では鎮火祭(ほしずめのまつり)と兼ねて行うことが多かった[3]。祭日は陰暦の6月と12月、その月の晦日にある大祓の後に開催したと言われるが、『延喜式』や『大宝令』に祭日の明記がないことから、吉日を選び執り行ったとする『拾芥抄』の説をとる見解もある[6]。
神道では春分と秋分・夏至と冬至・上半期と下半期など、半年周期を節目としながら斎行する神事例が多く見当たり、これらは農耕儀礼との結びつきや、季節・動植物の移り変わりを目安とする自然暦・自然観に基づき、半年毎を基本としていた所以である。
疫病神の災厄をはらう祭典の内に、陰陽寮の四角四境祭がある[7]。室町中期成立、朝廷における年間行事や儀式の由来・沿革を述べた『公事根源』(一条兼良・著書)では、道饗祭を「鎮火道饗の祭を四角四境の祭とも申也(もうすなり)」と記しているが誤りで、鎮火祭も道饗祭も四角祭や四境祭とは別の祭である[8]。
平安中期成立、朝廷儀式の作法や制度などを述べた『西宮記』(源高明・著書)によると、疫病の兆しがあった歳に臨時に都の四隅で行う祭を「四角祭」、諸国の四境で行う祭を「四境祭(四界祭)」と呼んだものと記している[7]。恒例的に神々を祀る祭を指してはいなかったが、後世の誤認により道饗祭や鎮火祭は一緒くたに纏められ解釈されていた[7]。特に疫病が流行ると地方でも臨時に道饗祭を行ない、疫病神を祀る祭祀と誤解や混同が生じやすい環境にあった[6]。
「 | 四界祭 - 陰陽寮向ニ四界一祭、以ニ蔵人所人一為レ使。 四角祭 - 陰陽寮向ニ宮城四角一祭、有レ使所人。 已上天下有レ疫之時、陰陽寮進ニ示度。科物官宣。 |
」 |
—『西宮記』(次田 2008年、p380より) |
原文 - 高天之原尓事始氐、皇御孫之命止称辞竟奉、大八衢尓湯津磐村之如久塞坐皇神等之前尓申久、八衢比古・八衢比売・久那斗止御名者申氐、辞竟奉久波、根国底国与里麁備疎備来物尓、相率相口会事無氐、下行者下乎守理、上往者上乎守理、夜之守・日之守尓守奉斎奉礼止、進幣帛者明妙・照妙・和妙・荒妙尓備奉、御酒者瓺辺高知、瓺腹満双氐、汁尓母穎尓母、山野尓住物者、毛能和物・毛能荒物、青海原尓住物者、鰭乃広物・鰭乃狭物、奥津海菜・辺津海菜尓至万尓氐、横山之如久置所足氐、進宇豆乃幣帛乎平気久聞食氐
八衢尓湯津磐村之如久塞坐氐皇御孫命乎堅磐尓常磐尓齋奉、茂御世尓幸閉奉給止申、又親王等・王等・臣等・百官人等、天下公民尓至万氐尓
平久斎給部止、神官天津祝詞乃太祝詞事乎以氐、称辞竟奉止申 — 『延喜式』、道饗祭祝詞
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