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1923-2017, 書家。「たかき」と読むこともある。 ウィキペディアから
高木 聖鶴(たかぎ せいかく、1923年(大正12年)7月12日 - 2017年(平成29年)2月24日[1])は、日本の書家。男性。位階は従三位。勲等は文化勲章。本名は高木 郁太(たかぎ いくた)。朝陽書道会会長、公益社団法人日本美術展覧会顧問、公益社団法人日本書芸院最高顧問、読売書法会最高顧問、文化功労者。
社団法人日本書芸院理事、読売書法会理事、読売書法会常任総務、社団法人日本美術展覧会常務理事、社団法人日本美術展覧会理事、社団法人日本美術展覧会参事などを歴任した。
内田鶴雲に師事し[2][3]、古典を研究し自身の書風を確立するとともに[2][3]、かなの書を中心に活躍した[3]。内田の創設した朝陽書道会を引き継ぎ[4]、長年に渡り会長を務めた[3]。また、日本美術展覧会においては1982年に会員となり[2][3]、1991年には日本美術展覧会内閣総理大臣賞を受賞している[3]。さらに、1995年には日本芸術院賞を受賞している[3]。2006年には文化功労者に選出され[2][3]、のちに文化勲章を授与されている[2][3]。
敗戦直前、東京で1年余りの「鉄砲を持たない兵隊」を経て帰郷[5]。「仕事以外に生涯を通じて学べるもの」を書に求めた。父親が始めた証券会社で20年間働く傍ら、1947年(昭和22年)、書家の内田鶴雲に師事。「中国、日本の古筆・名筆を研究。「かな」書家として、情感を秘めた現代感覚あふれる様式を確立した。」と評される[6]。
書家として日本や中国の古筆、名筆を研究し、美しく気品ある仮名を追求、独自の書風を打ち立てて斯界の発展に大きな貢献をしてきた。1950年に日展初入選。1975年からは日本書芸院理事、1984年からは読売書法会理事に就くなど、日本の書の発展に大いに貢献した。▼岡山を拠点に朝陽(あさひ)書道会を創設した内田鶴雲に師事。鶴雲の師が仮名書の大御所、安東聖空であったことから、聖空譲りの「元永本古今集」の書風をしっかり身につけた後、「一条摂政集」「高野切」「針切」「香紙切」など古筆の森に分け入り、王朝の雅を手中に収めた。▼現代の仮名書を代表するまでになりえたのは、一方で戦後の仮名書家たちが追い求めた大字仮名にも新境地を開いたからである。 — 読売新聞社、読売人物データベース
2006年(平成18年)、文化功労者に選ばれた際には「かな書は文字としての意味を伝えるだけでなく絵画のような造形美を探求するもの。墨と筆の日本の文化です。書は私のすべて。後世にいい作品をのこすため全力投球する」と述べた[5]。晩年になっても日本美術展覧会の顧問をはじめ[7]、日本書芸院の最高顧問や[8]、読売書法会の最高顧問など[9]、多くの団体の役職を務めた。2017年2月、岡山県倉敷市の病院にて死去した[2][3]。
本名は「高木 郁太」[10]であり、「たかぎ いくた」[10]と読む。一方、書家としての号である「高木 聖鶴」については、「たかぎ せいかく」[3]と読むが「たかき せいかく」[2]と報じられることもある。
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