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M3サブマシンガン(英: M3 Submachine Gun)は、アメリカ合衆国で開発された短機関銃である。第二次世界大戦中、アメリカ軍の主力短機関銃だったトンプソン・サブマシンガンの後継装備として設計された。
M3グリースガン | |
M3サブマシンガン | |
---|---|
種類 | 軍用短機関銃 |
製造国 |
アメリカ合衆国 アルゼンチン 中華民国 |
設計・製造 | ゼネラルモーターズ |
年代 | 1940年代 |
仕様 | |
種別 | 短機関銃 |
口径 | 11.43mm |
銃身長 | 203mm |
使用弾薬 | .45ACP弾 |
装弾数 | 30発(箱型弾倉) |
作動方式 | ストレートブローバック |
全長 |
570mm 745mm(銃床延長時) |
重量 | 3,700g |
発射速度 | 400-450発/分 |
銃口初速 | 280m/秒 |
有効射程 | 50〜90m |
歴史 | |
設計年 | 1942年 |
製造期間 | 1942年-1960年代(地域による) |
配備期間 | 1943年-現在 |
配備先 |
アメリカ軍 国民革命軍 陸上自衛隊 大韓民国軍 など |
関連戦争・紛争 |
第二次世界大戦 朝鮮戦争 ベトナム戦争 など |
バリエーション | バリエーションを参照。 |
銃器としては特異な独特の外観からグリースガン(Grease Gun, The Greaser、グリース(潤滑油)差し)、ケーキデコレーター(Cake decorator、ケーキの上にクリームをしぼり出して飾りつける道具)、また、生産地からデトロイト・サブマシンガンとも呼ばれている。
第二次世界大戦が勃発した際、アメリカ軍は主力短機関銃としてトンプソンM1928およびM1928A1を採用していた。だが、トンプソンは原設計が古く、内部構造が複雑な上に重量過大かつ全長が長大で携行性に問題があった。そのため、生産性を向上すべく設計を変更、性能に影響を与えない部品などは生産性の良いものに変更するなど、外見と中身が一新された。このモデルはトンプソンM1短機関銃として採用される。
M1は「既存の切削加工技術の枠内では、かなり生産効率を重視した設計」に変更されたが、M1928から工程を簡略化したM1でも木製のグリップやストックを装備し、レシーバーを削り出しで製造するなど、基本的な生産方法は変革されておらず、同時期に先行して生産性重点設計を採り入れていたMP40やステンガンなどの外国製の同種火器に比べて、コストが高く生産効率が悪かった。改設計されていた撃針部分をさらに見直して生産効率を上げたM1A1も開発されたが、木製部品を多用するトンプソンは、急増する戦場からの補給要請を満たすには程遠い状況であった。
アメリカ軍におけるトンプソンの更新は大戦当初から計画されており、1939年にはゼネラルモーターズ社国内製造部(Inland Manufacturing Division)のジョージ・ハイド技師が手がけたM35短機関銃が後継装備として審査を受けたほか、スオミ短機関銃、レイジング短機関銃、ハイスタンダード製短機関銃、スミス&ウェッソン製半自動カービン、ステン Mk.2などの製品も候補として挙げられていた。結局、この際には更新が見送られたものの、1942年にはステンを参考とした安価かつ生産効率の高い短機関銃を設計する方針が決定し、かつてM35短機関銃を提出したハイドが計画に沿った新型短機関銃の設計を担当することとなった。こうして鋼板のプレス加工と溶接のみで製造できる本銃が開発された[1]。
陸軍武器科研究開発部長ルネ・スタッドラー大佐(René Studler)指導のもと、ハイドはゼネラルモーターズ社ガイドランプ部(Guide Lamp Division)に勤務するプレス加工技師フレデリック・サンプソン(Frederick Sampson)と共に新型短機関銃の設計を行った。最初の試作モデルであるT-15は9x19mmパラベラム弾を使用し、弾倉はステンガンのものをそのまま使用した。また、セミ/フルオート射撃を切り替えられるセレクティブファイア機能を備えていた。これに改良を加えたT-20と呼ばれるモデルは.45ACP弾を使用し、セレクティブファイア機能が除去されていた。T-20の開発時には、形状を工具に例えた「グリースガン」という通称がすでに使われ始めていた[2]。
アバディーン性能試験場における試験では歩兵委員会に加え、任務の性質上小型軽量の火器を求めていた空挺コマンドおよび機甲部隊委員会からも高い評価を受けた。同年12月24日にはT-20が制式名称"U.S. Submachine Gun, Cal. .45, M3"、略称M3として採用されることとなり、1943年1月11日にこれが承認された[3]。
開発にあたっては、自動車量産のために鋼板プレス加工と溶接工作のノウハウが豊富だった、ゼネラルモーターズの技術が利用された。内部メカニズムはMP40などが参考にされたが、より簡易かつ安価な作りで、外装はプレスで一体成型したレシーバーを左右から接合し、溶接で貼り合わせ組み上げている(いわゆるモナカ構造)。レシーバーの形状はプレス加工と強度確保に有利な曲面基調で鋭角を極力回避しており(この手法は、まさに自動車メーカーが鋼製のボディ部材をプレス生産する際の常套策である)、削り出し加工の在来型小火器とは一線を画したアプローチで設計されていることが明らかだった。
ボルトは2本の鉄棒で保持され、鉄棒それぞれに1本ずつの復座ばね(リターンスプリング)が組み合わされている。ボルト周りの構造は厳密な製造公差を必要としないため、製造工程を簡略化でき、すすや砂塵などの汚れにも強い。ボルト部以外で一定の機械加工が必要な銃身は冷間鍛造(cold swaging method)で作られ、切削加工に比べて加工工程節減と強度向上の両面で有利となった。弾倉を外し、銃身の付け根をつかんでねじ外すと、一体化されたボルト・復座ばねアセンブリーを前方へ抜き取ることができる。弾丸はトンプソンと同様、アメリカ軍制式の.45ACP弾が引き続いて採用されており、個人用装備であったM1911A1ピストルとの銃弾の互換性が維持された。
この銃は非常に単純化・合理化されたメカニズムを備えていた。特に、安全装置として排莢口の蓋内側に取り付けられた金属板を利用した単純明快なアイデアは、傑出した合理化策と言える。蓋を閉じた状態では金属板からの突起がボルトの穴に入って固定され、前進位置では後退できず、後退位置(全装填状態)では前進できなくなるため、蓋を開いてはじめてボルトを操作することができる。反面で、銃を手荒に扱うと、開いた状態の蓋を変形させるおそれがあった。蓋の下面には閉じた際のがたつきを抑えるためのパッドが取り付けられている。
細い鉄製パイプを折り曲げて作られた伸縮式ストックは、取り外してブラシを差し込むことでクリーニングロッドとして使用することができた。改良型のM3A1では更に汎用性が高められ、分解・整備用ツール、さらに、弾倉への装填ツールを兼ねたものとなった。旧来の小火器に付き物であった木製ストックを廃止し、MP40のような折り畳み式金属製ストックよりも、さらに簡略な金属棒をストック部材に採用したことは、軽量化・小型化と生産性向上に大きく寄与した。スリングスイベルは溶接されており、スリングはM1カービンと同じものだった。リアサイト(照門)は小穴を通してフロントサイト(照星)を見るピープサイトで、照準距離は100ヤード(約91メートル)に固定されていた。レシーバーの左側面にはM1カービン用油差しを収納できるブラケットが取り付けられていたが、M3A1ではグリップ内部へ内蔵する形に変更された。
採用決定後、300,000丁分の契約が結ばれ、ゼネラルモーターズ社ガイドランプ部による生産が始まった。価格はボルト部を除く本体が18.36ドル、バッファローアームズ社(Buffalo Arms Co.)が別途生産するボルト部が2.58ドル、すなわち1丁あたり20.94ドルと定められていた。これはM1A1トンプソンのおよそ半分の価格であった。しかし生産開始後、レシーバーの溶接時、プレス加工された部品が熱によって歪むことが多く、期待されたほどの生産性を達成できないことが明らかとなった。当初は1943年7月までに2万丁ほどが出荷される計画だったが、実際の出荷数はわずか900丁程度に留まっていた。製造工程の改善は随時進められたものの、最終的な問題が解決されるまではM1A1トンプソンも並行して調達されることとなり[3]、1944年2月まで製造が続けられた[1]。
1944年6月のノルマンディー上陸作戦の際、第82および第101空挺師団による空挺作戦において用いられたのが最初の実戦投入と言われている。
まるで工具の「グリースガン」そのもののような兵器らしからぬ外見は、最初に支給された兵士たちからは奇異に受け止められたが、実戦において取り回しが良く、信頼性の高い銃であることが実証されると、多くの兵士たちから愛用されるようになった。M3は故障が大変少なく、携帯性にも優れていたので(トンプソンM1の全長は813mm、本銃の全長は579mm。30センチ近く短い)、歩兵以外にも戦車兵の自衛用火器などとして使用された。一分間当たりの発射弾数はM1より少なかったが、その分射撃中のコントロールが容易(反動が少なく、集弾が散らばりにくく、短い訓練時間で使いこなせる)というメリットがあった。そのため、熟練した兵士や扱いに慣れたものは、フルオート射撃専用の銃であるにもかかわらず、一瞬だけ引き金を引き、擬似的なセミオート射撃を行ったものもいたという。
一方、欠点もいくつか指摘されていた。本銃のコッキングレバーは一般的なボルトではなく、レシーバーに外付けされたハンドル型の回転式で、また安価な金属素材から成形されていたため、ぶつけたり手荒に扱うと容易に変形したり外れてしまうのである。バレルラチェットパッド(銃身止め)やリアサイトも破損しやすかったほか、マガジンリリースが誤って押されることも多かった。1944年4月、これらの報告を踏まえたモデルがM3E1として設計された。このモデルではハンドル型コッキングレバーを廃止し、ボルトの凹みを直接指をかけて後方に引くことで撃発準備を行うように改められ、その都合上排莢口(エジェクションポート)と開閉蓋が前後に拡大された。加えて従来は後付改修の一環だった側面ガード付きリアサイトが標準的に設けられていた点、左側面に取り付けられていた油差しブラケットが廃止され、代わりにより大型のものがグリップ内に収められていた点、ストックが各種作業用の工具として利用できるようにされた点が重要な改良と見なされた。M3E1は同年12月21日に制式名称Submachine Gun, Caliber . 45, M3A1として採用され、以後はM3A1のみ調達された[3]。また、交換部品の調達が困難な戦地でM3のコッキングレバーが破損した際、レシーバーに切り込みを入れてボルトに間に合わせのコッキングレバーを取り付ける現地改修を行う兵士もいた[4]。
M3とM3A1はアメリカ軍に広く配備されたほか、ソビエト連邦や中華民国にも供与され、第二次世界大戦のほぼすべての戦線で運用された。第二次世界大戦を通じた生産数はM3が606,694丁、M3A1が15,469丁であった[3]。
戦後も、西側諸国やアメリカ寄りの新興国に広く供与された。朝鮮戦争後の1954年にはイサカ社と7万丁分の新規調達契約が結ばれたが、33,227丁が出荷された時点で短機関銃の差し迫った必要性は薄れたと判断され、生産は打ち切られた[3]。
1957年、アメリカ軍は新型自動小銃M14を採用した。当初、M14はアメリカ軍における標準的な歩兵用小火器、すなわちM1ガーランド、M1/M2カービン、M1918自動銃、そしてM3/M3A1短機関銃のすべてを同時に更新する銃器とされていた[5]。
1960年代初頭、アメリカ軍によるベトナム戦争への介入が始まった。最初期に派遣された軍事顧問らはM3/M3A1を含む第二次世界大戦期の旧式装備で武装していた。その後、介入が本格化する中で米軍人らの装備はM14小銃やM16小銃へと更新されていった。一方、1961年12月11日以降のベトナム共和国(南ベトナム)に対する大規模な軍事援助の一環として、M3/M3A1を含む各種旧式小火器の給与が行われた。この時期に新規調達は行われなかったが、運用中のM3/M3A1を修理するための各種交換部品が新たに生産された。これらの部品にはメーカー刻印が施されていなかった。また、湿度の高いベトナムでの運用を踏まえ、クロムメッキ加工が施された新型銃身も設計された。狙撃班や特殊部隊向けにSIONICS製消音器を取り付けたものも使われた。特殊部隊員の中には、切り詰めたM2機関銃のスプリングを取り付ける改造を施すものもいた。この改造により発射速度を800発/分まで引き上げることができたが、レシーバー後端の破損が相次いだという。一方、アメリカと対峙した共産軍(北ベトナム軍、ベトコン)においてもM3/M3A1が広く使われた。これらのM3/M3A1はアメリカ軍や南ベトナム軍からの鹵獲品に加えて中国製コピーが多数含まれ、標準的な45口径モデルのほか、9mmモデルや各種消音モデルなども使用されていた[5]。
アメリカ軍においては旧式化しながらも主に車両乗員用装備として長らく配備されていた。イーグルクロー作戦など、ベトナム戦争後のいくつかの軍事作戦においては少数の消音モデルが使用されたと言われている。また、2005年時点でもイラクおよびアフガニスタンにて使用されていたという報告がある[要出典]。大量に生産されたM3およびM3A1の大部分は依然として合衆国政府の財産とされており、コレクター市場でもほとんど流通していないという[3]。
一方で、ソ連や中国もM3を大量に入手しており、朝鮮戦争(祖国解放戦争)では中国人民志願軍や朝鮮人民軍が使用した。その後も民兵組織や東南アジアの共産勢力に供与された。中国国内では、少なくとも珍宝島事件の頃まで民兵組織に供与されていたようである[6]。
フィリピンでは2004年になってから改めてM3を採用した。当時、フィリピン海軍および海兵隊では、車両乗員や臨検要員のために軽量小型の自動火器を求めていた。当初はM4カービン、ウージー、フローラ MK-9が候補だったが、これらの銃器の調達が困難であることと新規調達のために割り当てられた予算の都合を考慮した末、N-11(海軍の火器・情報システム・通信機材担当部局)ではアメリカ合衆国に対して同国が予備装備として保管していたM3およびM3A1の提供を求めたのである。配備前にクリーニングや補修を行う必要があったが、それでも1丁あたりの調達コストは新品のH&K UMPの40分の1程度だったという。N-11は海軍および海兵隊の装備としてM3およびM3A1を支給するとともに、海兵隊の特殊作戦部隊(武装偵察大隊)向けに近代化改修モデルを用意する計画を明らかにした。2004年2月、フォート・ボニファシオにて国産消音器を取り付けた試作銃の試験が始まった[7]。この特殊部隊向け近代化改修モデルは、M3 SpecOps Generation 2、あるいはM3 Gen2、PN/PMC M3といった通称で知られ、一体型の消音器、ピカティニー・レールが追加されている[8]。
日本の陸上自衛隊では11.4mm短機関銃M3A1として制式採用された。1960年代には後継としてニューナンブM66短機関銃が開発されたが、短機関銃の価値が低く見られていた時代であったため採用されず、1990年代になって9mm機関けん銃が採用されたが、全てのM3A1が更新されたわけではなく、戦車搭乗員の他普通科部隊の対戦車小隊所属60式自走106mm無反動砲乗員や高射特科部隊員などが使用していた。また、海上自衛隊でも少数であるが使用されていた。『自衛隊装備年鑑』にはM3A1との記載しかないが、M3とM3A1が混在していた。自衛隊が保有していた45口径短機関銃は、1998年度から9mm機関けん銃への更新が始まり、2011年度までに完了した[9]。
第二次世界大戦中、秘密活動部局であるOSSは特殊作戦用の消音短機関銃を求めていた。これを受けてベル研究所およびハイスタンダード社がM3用の消音器を開発した。製造はガイドランプ部が担当し、これを取り付けた消音モデルのM3はおよそ1,000丁が調達されたとされる。また、占領下の地域で活動するパルチザンやOSSエージェントのため、ドイツの標準拳銃弾9x19mmパラベラム弾を使用するモデルの要求も成された。これに基づき設計された変換キットは、9mm用のバレルおよびボルト、ステン短機関銃用弾倉をそのまま装填できるようにするマガジンアダプタのセットだった。およそ25,000セットの調達が想定されていたが、実際には1943年末から1944年初頭にかけておよそ500セットのみが調達されたと言われている。銃身にクランプで固定するラッパ型消炎器も設計された。これは第二次世界大戦中にT-34の名称で設計されたもので、1950年代に入ってからM9消炎器(Hider, Flash, M9)として制式採用された[3]。ドイツ製StG44突撃銃用曲銃身に影響を受けた戦車兵向け曲銃身もベル研究所によって開発された。これは肉薄攻撃を試みる敵を車内から射撃するために用いることが想定されていた[2]。
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