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アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件

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アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(アジアたいへいようせんそうかんこくじんぎせいしゃほしょうせいきゅうじけん)は、慰安婦に対する賠償を日本政府に求めた初の裁判[1]2004年平成16年)、最高裁判所にて原告の敗訴が確定した[1]。略称、韓国遺族会裁判。

概要 最高裁判所判例, 事件名 ...

概略

  • 1991年(平成3年)12月6日に補償を請求して、東京地方裁判所に提訴[1]。控訴人は韓国太平洋戦争犠牲者遺族会。1次原告35人うち慰安婦は3名、他は元日本軍人および軍属、2次原告は1992年(平成4年) 4月13日、元慰安婦ら6人[1]。訴訟原告代理人は高木健一弁護士)、林和男(弁護士)、福島瑞穂(弁護士)ら11人。
  • 2001年(平成13年)3月26日、東京地裁(丸山昌一裁判長、大竹たかし裁判長代読)は「日韓協定の実施に伴う措置法により65年に消滅した」として請求を棄却した[2]。原告側は判決を不服として控訴した。この時点では元慰安婦1名が離脱しており、原告は40人[2]
  • 2003年(平成15年)7月22日東京高等裁判所は控訴を棄却した。原告側は判決を不服として上告した[3]
  • 2004年(平成16年)11月29日、最高裁判所第二小法廷津野修裁判長)は「第二次大戦中の犠牲や損害は、憲法が想定していない事柄で、政策的な立場から配慮すべきかどうか考えられるにすぎない」として原告の上告を棄却する判決を言い渡したため、原告の敗訴が確定した[1][4]
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論点

東京高裁では損害賠償請求権が争点であった。判決で東京高裁は「国は軍人および軍属に対し、戦時下でも安全配慮義務を負っている」との初の判断を示した。そして一部の原告については「将来処罰される危険を生じる違法な行為を命じられた」として損害賠償請求権の存在も認めた。しかし、1965年日韓基本条約に伴う措置法および除斥期間の経過により権利は消滅したと判断[1]。これにより日本国に対する賠償義務は認めなかった[1]

これを受けて最高裁では、原告は「旧日本軍の軍人軍属等であったが終戦後日本国籍を喪失した韓国在住の韓国人に対して、日韓請求権協定締結後に措置を講じず、戦傷病者戦没者遺族等援護法恩給法を維持したこと」が日本国憲法第14条法の下の平等に違反すると主張したが、最高裁判所は口頭弁論を開かず、東京高裁の判決を支持、棄却した[1]

原告

  • 原告は合計41人(その後40人)で、うち32人が軍人、軍属およびその遺族、9人(その後8人)が元慰安婦である。元慰安婦の原告の名前はA(金欄伊)、B(のちに離脱)、C(金福善)、金学順(裁判中に死去97.12)、文玉珠(裁判中に死去96.10)、李貴分、廬清子、金田きみ子(朴福順)、沈美子である[5]
  • 裁判中に死亡した2名および離脱した1名を除く6人の元慰安婦について東京高裁判決で、事実認定が行われている。認定は1本件の背景事情、2各原告の被害事実の2カ所で行われており、本件の背景事情では、慰安婦制度一般について、その存在、国・軍の関与があったこと、募集方法に詐欺脅迫があったこと、朝鮮半島出身者が多いこと、戦地で常時日本軍の管理下にあったことなどが認定されている。各原告の被害事実では、6人の原告の出身地、慰安婦になった経緯、慰安所での強要の状態などが事実認定されている。なお事実認定は東京高裁の判決で確定し、最高裁での棄却は賠償などの訴えを棄却している[6]。被告側は事実認定を争点とすることなく、裁判は弁論主義で自動的に認定されたという。

脚注

関連項目

外部リンク

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