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アルジェリアの地方行政区画
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アルジェリアは、58の県(アラビア語: ولاية wilāyah、ウィラーヤ)、547の郡(دائرة daïra 、ダイラ)と1,541の基礎自治体(بلدية baladiyya、バラディヤ)の三層から成り立つ。本項では主に県について説明する。
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概要
アルジェリアに初めて県(ウィラーヤ)が設置されたのは、アルジェリア独立戦争でアルジェリア民族解放戦線(FLN)が設置したものとされる。ただし当時はFLNの支配下のみの運営であった。フランス領時代は県(デパルトマン)が設置されており、独立後も1974年までは引き続き同じ区画を使用していた。1974年、1983年、2019年の三度に渡って新たな県が追加され、現在に至る。呼称がデパルトマンからウィラーヤへ変更されたのは1968年のことで、これを境にフランス語表記もDépartementからWilayaへ変更された。余談ではあるが、ウィラーヤを英語訳するとProvince(プロヴィンス)となる。
アルジェリアは広大な面積を誇るが、人口は北部の地中海沿岸に集中しており、南部のサハラ砂漠地帯にはほとんど居住していない。行政区分にもその特徴が表れており、面積・人口は北部と南部の県では逆の傾向にある。特に2019年以前の面積上位3県(タマンラセット県、アドラール県、イリジ県)の合計は約127万平方キロメートルで、国全体の半分と極端に偏っていた(一方で人口は全体の2パーセントにも満たない)。
各県名は、県内の最大都市からつけられている。また、各県には県コードと呼ばれる数字が割り当てられており、現行のコードは1974年に当時の31県に設定されたものである。1983年、2019年と県は増加したが、どちらも従来の県コードも含めた再設定はせず新たな県に続きを割り振る形を採っている。県コードは車のナンバープレートやISO 3166-2:DZに使用されている。県の首長(県知事)はワリと呼ばれる。
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現行の県
要約
視点

2019年11月26日、政府は10の県を新たに設置することを発表[1]。同年12月5日に法案がアルジェリア議会において可決され[2]、県は合計58つとなった。なおこれらの県は元々、2015年5月27日に設置された準県(Wilaya déléguée、県と郡の中間)であった[3]。
- 2019年追加の県と分離元
- 49:エル・ムエラ県 - エル・ウェッド県北西部
- 50:エル・メニア県 - ガルダイア県南部
- 51:ウレド・ジェラル県 - ビスクラ県西部
- 52:ボルジュ・バジ・モウタール県 - アドラール県南部
- 53:ベニ・アッベス県 - ベシャール県南部
- 54:ティミムン県 - アドラール県北部
- 55:トゥーグラ県 - ワルグラ県北東部
- 56:ジャーネット県 - イリジ県南部
- 57:イン・サラー県 - タマンラセット県北部
- 58:イン・ゲザム県 - タマンラセット県南部
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県の変遷
要約
視点
フランス領アルジェリア

- 変遷[6]
- 1831年12月1日:地中海沿岸の「市民地域」とサハラ砂漠の「軍事地域」の2つに分割される。
- 1845年4月24日:市民地域にアルジェ県、コンスタンティーヌ県、オラン県の3つが設置される、各県には3つの地区が設置され、市民地域は県へと変わった。
- 1848年12月9日:アルジェ県、コンスタンティーヌ県、オラン県が海外県へ昇格し、フランス本土に編入される。これら3県は本土と同じく県(Département)、郡(Arrondissement)、基礎自治体(Commune)または地区(District)の3層構造となった。一方の軍事地域は3つの行政地域が設置された。
- 1870年10月24日:県と軍事地域の区分が統合される。これ以降旧軍事地域は県に編入され、小さくなっていった。
- 1902年12月24日:かつて軍事地域に所属していた行政区画は「南方領土」(Territoires du Sud)へ統合され、3県1領土となる。
- 1905年8月14日:南方領土の下位区分としてアインセフラ県、オアシス県、ガルダヤ県、トゥーグルト県が設置される。
- 1955年8月7日:ボーヌ県設置。また、郡が追加され合計32郡となる。
- 1956年6月28日:1955年までの県範囲を基にアルジェ、コンスタンティーヌ、オランの3地域圏(Igame, inspecteur général de l'administration en mission extraordinaire)が設置される。南方領土以外の県はいずれかの地域圏に所属することとなった。
- 1957年1月10日:南方領土の県がサハラ地域自治体連合(Organisation commune des régions sahariennes)を結成する。
- 1957年5月20日:34郡が新たに設置される。
- 1957年7月1日:当時の13県に新たな県コードを設定。このコードは1963年まで使用された。
- 1958年3月17日:オマール県、ブジー県、サイダ県が新設される。
- 1959年11月7日:オマール県とブジー県が廃止される。
アルジェリア独立戦争

フランスからの独立戦争を行っていたアルジェリア民族解放戦線は、支配地域の行政区画および軍事部門アルジェリア国民解放軍の軍管区として、アルジェリア北部を中心に県(ウィラーヤ)を設置した。1956年のスンマム会議では以下の6県の設置が決まった。
- 第一県(オーレス)
- 第二県(コンスタンティノス)
- 第三県(カビリ)
- 第四県(アルジェワス)
- 第五県(オラニー)
- 第六県(サハラ砂漠)
その後の戦況の変化に伴い、県は再編されることがあった。この不完全な県は、1962年に独立を達成すると廃止された。
1962年 - 1974年

図中番号は1973年の県コードと対応
1962年にアルジェリアはフランスから独立したが、独立当初はフランス領時代の行政区分をそのまま使用していた。1963年2月に県コードがフランス領時代のものから、アルファベット順に始まる一文字へ変更[7]。同年5月16日、フランス領時代の行政区画を踏襲する形で改めてアルジェリアに15の県(デパルトマン)が設置され[8]、自治体数も1,485から631へ減少した[9]。その後も増減が行われ、1965年時点で郡は91、自治体は676あった[10]。1963年に県コードは2桁の数字となり、前回と同じくアルファベット順に割り当てられた[11]。
1968年に第一級行政区画に使われていた呼称をフランス語由来のデパルトマン(Département)からアラビア語のウィラーヤ(Wilaya)へ改めた。ただし日本語ではどちらも県と訳されることが多いため、同一のものと思われやすい。実際は別物ではあるが範囲は同じであるため、下表ではデパルトマンとウィラーヤを同一のものとして扱っている。
下表の県名は1962年の独立時のもの。下位区分(郡、自治体)数は1965年時点、人口は1962年推定[10]。
- 1968年以前に改称。
- 1962年に改称。
- 1962年にティッテリ県へ改称、1968年にメデア県へ差戻された。
- 1962年にシュレフ県へ改称し、さらに1964年にはアスナム県へ改称。
- 1962年に改名。現在のシュレフで、いずれも同じ都市。
1974年 - 1983年

1974年7月2日の法改正によって15県は再編され31県となり、県コードも新たに割り当てられた(これ以降は再設定せず追加している)[12]。1980年、アスナム県および県都のアスナムはそれぞれシュレフ県、シュレフへ改称された。
人口は1978年推定。アラビア語名、ラテン文字表記、県都は現行の県と同じため下表では省略している(次項も同じく)。
1983年 - 2019年

1983年12月15日、17県が新設され合計は48つとなった[6]。
- 新設された県と分離元
- 32. エル・バヤード県 - サイダ県
- 33. イリジ県 - ワルグラ県
- 34. ボルジ・ブ・アレリジ県 - セティフ県
- 35. ブメルデス県 - アルジェ県、ティジ・ウズー県
- 36. エル・タルフ県 - アンナバ県、ゲルマ県
- 37. ティンドゥフ県 - ベシャール県
- 38. ティセムシルト県 - アルジェ県、ティアレット県
- 39. エル・ウェッド県 - ビスクラ県
- 40. ヘンシュラ県 - ウメル・ブアーギ県、テベッサ県
- 41. スーク・アフラース県 - ゲルマ県
- 42. ティパザ県 - ブリダ県
- 43. ミラ県 - コンスタンティーヌ県、ジジェル県、ウメル・ブアーギ県、セティフ県
- 44. アインデフラ県 - シェリフ県
- 45. ナーマ県 - サイダ県
- 46. アイン・ティムシェント県 - シディ・ベル・アッベス県
- 47. ガルダイア県 - ラグアット県
- 48. ルリザンヌ県 - モスタガネム県
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下位行政区画
- アルジェリアの郡
- アルジェリアの基礎自治体(アルジェリアのコミューン)
脚注
関連項目
外部リンク
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