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アレクサンドル・コジェーヴ

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アレクサンドル・コジェーヴ(Alexandre Kojève フランス語: [alɛksɑ̃dʁ koʒɛv], 1902年4月28日 - 1968年6月4日)は、ロシア出身のフランス哲学者である。フランス現代思想におけるヘーゲル研究に強い影響を与えた。

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人物

アレクサンドル・コジェーヴの名称はフランス語での読み方であり、ロシア語では、アレクサンドル・ヴラジーミロヴィチ・コジェーヴニコフ

フランスパリ高等研究実習院1933年から1939年まで行われた、ヘーゲル精神現象学』についての講義は、後のヨーロッパにおけるヘーゲル復興に大きな影響力を与えた。この講義の聴講者には、ジャック・ラカンジョルジュ・バタイユレイモン・アロンエリック・ヴェイユロジェ・カイヨワメルロ=ポンティアンドレ・ブルトンなどがいる。ここで提示されたヘーゲル像は、彼らによって後のフランス現代思想へと受け継がれることになる。なお、講義は後に、『ヘーゲル読解入門』として出版された。

生涯

要約
視点

コジェーヴは1902年モスクワ旧市街の一角で生まれる。父は富裕な商人で、父方の伯父は、画家のヴァシーリー・カンディンスキー。コジェーヴの父は、1904年に勃発した日露戦争に招集され、1905年、満洲で戦死。母は、父と共に満洲に来ていたが、夫の死後、モスクワに帰還する。その際、コジェーヴの義父であり、後の夫であるレムキュールと出会う。コジェーヴは、モスクワでも評判の私立学校に入学し、個人教授も受ける。以後、コジェーヴは、ラテン語フランス語英語ドイツ語を学ぶ。

1917年の二月革命十月革命の時、コジェーヴは15歳になっており、彼はこのときから、「哲学日記」という手記を始める。このとき、すでに後にコジェーヴにとっての主要なモチーフとなる「死の観念」についての考察が始まっていた。

革命の混乱の中、コジェーヴの義父レムキュールは、賊に暗殺される。この頃コジェーヴは、慢性的な食料難のため、闇市に出入りし、その咎で投獄される。仲間たちは銃殺されるが、コジェーヴ自身は親戚の口利きによって助かる。

これら一連の経験が、コジェーヴをして大きく動揺せしめた。このことが、彼に「死=実在せざること」をどう理解するか、ということについて、生涯を通じて考察させるきっかけとなった。この「死についての考察」は、後に『ヘーゲル読解入門』において、大きく展開されることになる。

1920年、コジェーヴは祖国を捨て、ドイツ亡命する。1926年に至るまで、ドイツのハイデルベルクベルリンで研究を続ける。この間彼は、ドイツ語哲学、東洋語(サンスクリット語中国語チベット語)、ロシア文学について学ぶ。

1926年、ハイデルベルクで学位を取得したコジェーヴは、フランスパリに移り、ソルボンヌ大学で研究生活を続ける。この頃、高等研究院で教鞭をとっていた科学史アレクサンドル・コイレと知り合い、1933年(『精神現象学』講義の始まる年)まで、高等研究院で研究活動をした。ソルボンヌでは数学物理学、高等研究院では宗教哲学と東洋語を主に研究する。この頃、マルティン・ハイデッガーは『存在と時間』を著している。

1933年、「ソロヴィヨフの宗教哲学」という論文を著す。この論文により、1934年、高等研究院の修了証書を取得。この頃、ヒトラーが首相に就任。同年、コイレがカイロに招聘されることになり、それまで高等研究院で行われていた講義がコジェーヴに託される。夏の間、準備のために『精神現象学』を数度、読み返す。このときに、「ナポレオンに具現化された歴史の終焉」という手がかりを見付け、このことが、コジェーヴのヘーゲル解釈に大きく影響することになる。またこの頃、講義と共に著述活動も活発になり、それらはフランス語、ドイツ語、ロシア語で著され、いくつかの雑誌に掲載される。

1943年、コジェーヴの記念碑的著作である『法の現象学(権利の現象学)』を著す。1945年、ヒトラー自殺。ドイツ政府は無条件降伏。原爆投下。コジェーヴは、フランスの政策に関する覚書を数編著し、また、講義の参加者の1人であるロベール・マルジョラン(フランス対外経済関係局の局長)によって、特務官に任ぜられる。この年以降、コジェーヴはフランス政府の仕事を続けることになる。

1947年、レイモン・クノーにより、高等研究院での講義録である『ヘーゲル読解入門』が公刊される。6月、米国マーシャル国務長官がヨーロッパ支援計画(マーシャル・プラン)を発表する[1]が、ソ連がこれを拒否[2]。7月、ヨーロッパ16か国はパリに集まり、ヨーロッパ経済協力委員会を創設[3]。コジェーヴはハバナで開催された国際貿易機関に関する会議に参加。

1948年3月、53か国がハバナ憲章に調印。これに、コジェーヴはフランス代表団の一員として参加。この憲章をアメリカが批准しなかったため、これは発効しなかった。そのため、暫定的に形成されたのが、GATTである[4]。4月、トルーマンが対外援助法に署名し、マーシャル・プランが始動する[5]。援助金はヨーロッパにおける機関設立によって投入されることになったが、そのための機関として、ヨーロッパ経済協力機構が創設される[6]。事務総長はロベール・マルジョランであり[7][8]、コジェーヴは対外経済関係局特務官として活動。

1953年、コジェーヴは結核に冒され政府活動を停止、その間に、自身の知の体系の充実に着手する。「カント論」、「概念・時間・言説」の執筆を始める。この年の3月、スターリンが死去。その死に際して、コジェーヴは「父を失ったようだ」と語った。

1959年に日本を訪問し、感銘を伴い帰国する。そこに、「歴史の終焉」後の人間の存在様式のある形を見出したのである。

1962年、ジュネーヴで行われた国連貿易開発会議の準備会議に、フランス代表として出席し、貧しい国々のために演説をする。彼はそのとき、ケネディ・ラウンドに大きな期待を寄せていたが、しかし11月、ケネディは暗殺される。1964年になると、交渉はジョンソンの下で開始され、コジェーヴはこれに参加。

1967年、定年になる時期だったが、官僚としての活動を続けることを望み、将来の国際貿易問題検討会の座長に任命される。

1968年、歴史の終わりに関して、『ヘーゲル読解入門』の注に日本のことを付け加える。6月、ブリュッセルにおける共同市場の会議に出席している最中、心臓発作で急死した。

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邦訳著作

  • 『ヘーゲル読解入門――『精神現象学』を読む』 上妻精今野雅方訳、国文社、1987年
  • 『法の現象学』 今村仁司堅田研一訳、法政大学出版局、1996年、新装版2015年
  • 『概念・時間・言説――ヘーゲル「知の体系」改訂の試み』 三宅正純根田隆平安川慶治訳、法政大学出版局、2000年
  • 『権威の概念』 今村真介訳、法政大学出版局、2010年
  • 『無神論』 今村真介訳、法政大学出版局、2015年

伝記

  • ドミニック・オフレ 『評伝 アレクサンドル・コジェーヴ』 今野雅方訳、パピルス、2001年。
    • コジェーヴの来歴、思想に関する膨大な資料をもとにした評伝の大著。

関連文献

  • 坂井礼文 『無神論と国家: コジェーヴの政治哲学に向けて』、ナカニシヤ出版、2017年。
    • 日本人の研究者により書かれたコジェーヴに関する研究書。
  • ヴァンサン・デコンブ 『知の最前線』、高橋允昭訳、TBSブリタニカ、1984年。
    • 『精神現象学』講義の行われた当時の状況が、詳しく語られる。
  • フランシス・フクヤマ 『歴史の終わり』(上・下)、渡部昇一訳・解説、三笠書房、1992年、新版2005年。
    • フクヤマが提唱する「歴史の終わり」の概念は、コジェーヴの「歴史の終焉」から導かれた。
  • モーリス・パンゲ 『自死の日本史』、竹内信夫訳、筑摩書房、1986年/ちくま学芸文庫、1992年/講談社学術文庫、2011年。
    • コジェーヴの「歴史の終わり」仮説の根本修正を背景の1つに『自死の日本史』を著した。
  • 東浩紀 『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2001年。
    • 「動物化」の「動物」は、コジェーヴから引かれている。
  • 竹田青嗣 『人間的自由の条件』、講談社、2004年/講談社学術文庫、2010年。
    • ヘーゲルの人間学的、欲望論的側面の発見者としてのコジェーヴを描いている。
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脚注

外部リンク

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