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ジョルジュ・バタイユ
フランスの哲学者 (1897-1962) ウィキペディアから
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ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897年9月10日 - 1962年7月8日)は、フランスの哲学者、思想家、作家。フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家であり、後のモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダなどに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えた。
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概説
要約
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1897年にフランスのビヨムに生まれる。父親は梅毒に侵され全盲状態であった。両親は無宗教であったが、本人の意志で1914年にカトリックに入信。敬虔なクリスチャンとして過ごす。その頃から神秘主義的な素養が芽生え始めている。その後フリードリヒ・ニーチェの読書体験を通して1920年代の始めまでには無神論者となった。「死」と「エロス」を根源的なテーマとして、経済学・社会学・人類学・文学・芸術・思想・文化・宗教・政治など多岐の方面にわたって執筆。発表方法も批評や論文・評論、対談集から詩・小説・哲学書まで様々な形態をとる。1922年に名門グランゼコールの一つである国立古文書学校を卒業後、パリ国立図書館に勤務していた。
哲学的には、レオン・シェストフから基礎をおっている[1]。シェストフとは、フョードル・ドストエフスキーとニーチェから哲学の出発をした哲学者であり、バタイユはシェストフの本を共訳でロシア語から訳してもいる(1924年)[2]。この頃から、シュルレアリストたちと行動を共にし始める。精神的に変調をきたし始め、アドリアン・ボレルの精神分析の治療を始める(1925年から26年まで)。一年で打ち切られるが、ボレルがバタイユに書くように励まし勇気づけたことで、その結果『眼球譚』という作品が生まれる。1929年から雑誌『ドキュマン』の編集に携わり、グラヴィアを交えながら様々な論を展開する。西欧の観念論を批判し、シュルレアリストから非難を買うことになる。アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲルに関する講義に、衝撃を受け、打ちのめされる[3]。ロード・オーシュ名義で発表された処女作「眼球譚」をはじめとして、トロップマン(『空の青』の登場人物名。Henri Troppmann。また、1869年頃に暗躍した大量殺人鬼の名前でもある。Jean-Baptiste Troppmann)、ルイ三十世、ピエール・アンジェリック等の様々な筆名を使ったことでも有名。
バタイユには、主として3つの作品群が存在する。
- 第一に、神秘主義的、内的体験的であり、ときに一貫する論理的(科学的)な整合性を欠きながら思弁される、思想的文章群。代表としては、戦間期に書かれた『無神学大全』三部作(『内的体験』、『有罪者』、『ニーチェについて――好運への意志』、タイトルの「無神学大全」の語は中世の哲学者トマス・アクィナスの『神学大全』のパロディ)がある。この三部作は、断片形式で書かれていること、主として従来では「神秘体験」と称されてきた「体験」――語ることの困難な体験――を論理的な整合性を欠きながらも、語っていることがその特徴にある。
- 第二に、バタイユがいうところの「学問的/科学的」に論理的明晰な、思想的文章群。『無神学大全』が「体験」を内在的に語るのに対して、ここでは外在的に、ときには歴史的に「体験」を探求している。『呪われた部分――普遍経済学の試み』(第一巻:『呪われた部分――有用性の限界』[4])、第二巻:『エロティシズムの歴史』、第三巻:『至高性』)が象徴的である。
- 第三に、小説群。これは『眼球譚』、『空の青』、『わが母』などである。
バタイユが思想的にとりわけ影響を受けたのは、1920年代に読み始めたフロイトおよびニーチェ、そしてコジェーヴの講義以降終生彼を捉えることとなるヘーゲル、そして西欧の神秘家たち(アンジェラ・ダ・フォリーニョ、ディオニシオス・アレオパギタ、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、etc.)である。
神秘主義に傾倒する前は共産主義を伝統的な(制度的)至高性souverainetéに最も対抗できる運動として称揚し、1931年から後のフランス共産党の創設者の一人ボリス・スヴァーリヌ率いる「民主共産主義サークル」のメンバーになるなど革命的知識人の側面があった。この団体が解散された1934年でも一時的にトロツキスト団体に加入したことがあるが、バタイユはこの頃に「内的体験」や「瞑想の方法」に目覚めたとされる。
また、ニーチェ研究者としては、ナチスによるニーチェ思想の濫用を早い段階から非難し、著作においてマルティン・ハイデッガーを「(主体的な)至高性が足りない」「ドイツの教授先生」などと批判していた。
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影響
ジャック・デリダ(『エクリチュールと差異』にバタイユ論がある[5])やミシェル・フーコー(『侵犯の思考』というバタイユ論がある[6])への影響は見逃せない。また、フーコーはガリマール版『バタイユ全集』の序文に「Bataille est un des écrivains les plus importants de son siècle(バタイユは今世紀の最も重要な書き手の一人である)」と記した[7]。バタイユと親交のあったモーリス・ブランショは、文学、思想、政治論などのあらゆる著作のなかでバタイユを参照している。その他、ジャン・ボードリヤールの経済思想は、バタイユの思想を踏襲・継承して展開される[8]。政治哲学者として有名なジョルジョ・アガンベンにおける「動物」と「人間」に関する考察は、バタイユからの影響が強く、アガンベン自身もそれを自覚的にバタイユを扱っている[9]。
生涯
- 1897年、ビヨムに生まれる。
- 1908年、ランスのリセに入学するも1913年中退し、エペルネーのコレージュに入学。
- 1914年、カトリックに入信。
- 1916年、第一次世界大戦に動員されるが、肺結核を患う。
- 1918年、パリに移転し、国立古文書学校に入学、1922年に卒業し、国立図書館司書に任命される。
- 1928年、女優シルヴィア・バタイユ(シルヴィア・マクレス)と結婚し、『眼球譚』を偽名のロード・オーシュ(小便をする神)名義で出版。
- 1929年から1930年まで、雑誌『ドキュマン』編集長を務める。
- 1930年、一女(ローレンス・バタイユ1986年没)を設ける。
- 1931年から1934年まで、反スターリン主義を掲げる左翼政治集団「民主共産主義サークル」に加入。そこの機関紙で「消費の概念」や「国家の問題」などといった論文を発表し続けた。
- 1934年、同年にシルヴィア・マクレスと離婚。彼女はのちにジャック・ラカンの妻となる。
- 1936年、反ナショナリズムを掲げる政治団体、<反撃>を結成するが、半年ほどで解散する。
- 1937年、私的結社『アセファル(無頭人)』を結成。
- 1943年から1945年にかけて、後に『無神学大全』と総称される『内的体験』『有罪者』『ニーチェについて』の三作品を出版する。
- 1946年、月刊書評誌『クリティク』を創刊する。
- 1951年、ディアーヌ。コチュベ・ド・ボアルネと結婚する。また同年に、オルレアン市立図書館の館長に就任する。
- 1955年、頸部動脈硬化症と診断される。
- 1962年、病状が急速に悪化し、永眠。聖マドレーヌ教会堂裏の墓地に埋葬される。
詳しくは、ミシェル・シュリヤ『G・バタイユ伝』上・下(西谷修ほか訳 河出書房新社、1991年)や酒井健 『バタイユ入門』(筑摩書房、1996年)などを参照。
主要著作
要約
視点
- 1920年代に書かれた著作・論考・文学作品[10]
- 『眼球譚』 "Histoire de l'œil"
- 『W.C.』
- 1930年代に書かれた著作・論考・文学作品
- 雑誌『ドキュマン』(1929-1931)所収の各論文(日本語訳『ドキュマン』バタイユ著作集第11巻、2002年(第八版))
- 『太陽肛門』(1931)
- 雑誌『社会批評』所収の各論文(ex. 「ヘーゲル弁証法の根底批判」(1932年3月)、「消費の概念」(1933年1月)、「国家の問題」(1933年9月)、「ファシズムの心理構造」(1933年11月、および1934年3月)
- 『空の青』(1934年) "Le Bleu du ciel"
- 雑誌『アセファル』所収の論考
- 『社会学研究会』(聖社会学)で発表した論考(講演含む)
- 1940年代に書かれた著作・論考・文学作品
- 『内的体験』「『無神学大全』1」(主要部分は、1941-1942に書かれた。刊行は43年。)L'expérience intérieur
- 『マダム・エドワルダ』(1941年12月)
- 『有罪者』「『無神学大全』2」(1944年出版)
- 『ニーチェについて――好運への意志』「『無神学大全』3」(1945年2月出版)
- 『有用なものの限界』(1930年代後半から45年までに書かれた草稿)
- 『呪われた部分――有用性の限界』「『呪われた部分――普遍経済の試み』1」(45-49年に書かれた。49年に刊行)
- 『宗教の理論』(推定48年頃に書かれた。生前刊行されず、1974年にガリマールから刊行。)
- 1950年代に書かれた著作・論考・文学作品
- 『C神父』(1950年)
- 『エロティシズムの歴史』「『呪われた部分――普遍経済の試み』2」(51年頃に書かれる。『呪われた部分』の第二巻となるよう予定されていた草稿。)
- 『ラスコー』(1953年から執筆され、55年に刊行。)
- 『マネ』(1953年から執筆され、55年に刊行。)
- 『わが母』(1954-55に書かれた。)
- 『文学と悪』(1957年ガリマールから出版。)
- 『エロティシズム』(1957年ミニュィ社から出版。)
- 1960年代に書かれた著作・論考・文学作品
- 『エロスの涙』(61年出版)
日本語訳
訳書刊行は、1950年代から始まり『蠱惑の夜(C神父)』、『エロティシズム』、『文学と悪』などが出版、再刊もあり読まれ続けている。著名な『眼球譚』と『マダム・エドワルダ』は、1967年に生田耕作が初訳出版(度々改訳)。1969年から1973年にかけ二見書房で『ジョルジュ・バタイユ著作集』全15巻が刊行した(新版も再刊)。
新訳版は2020年代現在まで、筑摩書房・ちくま学芸文庫や河出書房新社・河出文庫、平凡社・平凡社ライブラリー、光文社・光文社古典新訳文庫で、他にも大学出版局、月曜社などで出版されている。
- 『バタイユ書簡集 一九一七-一九六二年』(岩野卓司ほか全10名訳、水声社、2022年)がある。
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脚注
参考文献
エピソード
関連項目
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