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アンディ・ベクトルシャイム

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アンディ・ベクトルシャイム
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アンディ・ベクトルシャイム(Andy Bechtolsheim、1955年9月30日[2] - )は、ドイツ出身の電気工学者起業家投資家である。1982年にサン・マイクロシステムズを共同設立し、同社の主任ハードウェア設計者を務めた。現在は新興企業アリスタネットワークスの会長に就いている。Googleの初期投資者としても知られ、まだ法人化もされていない段階で出資を行った。2025年時点で「ブルームバーグ・ビリオネア指数英語版」および『フォーブス』によると、推定純資産は289億米ドルで、世界長者番付第68位に位置している[1]

概要 アンディ・ベクトルシャイム Andy Bechtolsheim, 生誕 ...

本名アンドレアス・フォン・ベヒトルスハイム (Andreas von Bechtolsheim)、正式名アンドレアス・マリア・マクシミリアン・フライヘア・フォン・マウヘンハイム・ゲナント・ベヒトルスハイム (Andreas Maria Maximilian Freiherr von Mauchenheim genannt Bechtolsheim)。姓は英語読みでベクトルシャイムとなる。

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生い立ちと教育

ベクトルシャイムは、バイエルン州ランツベルク・アム・レヒ郡フィニングヘンゲベルクドイツ語版・アム・アンマーゼーにて[3]、4人きょうだいの次男として生まれた。人里離れた生家にはテレビも近隣の家もなく、幼少期は電子工作に熱中していた。1963年、一家はローマへ移住し、さらに5年後の1968年にはドイツ南部のボーデン湖ノンネンホルン英語版へ再び移り住んだ。

16歳のとき、近隣企業の依頼を受けてIntel 8008を基盤とする産業用コントローラーを設計し、アセンブラが使用できなかったためバイナリコード英語版でプログラムを作成した。この製品によるロイヤリティ収入は、その後の学費の大部分を賄ったという[4]

若手研究者のための科学コンテスト「ユーゲント・フォルシュト英語版 (Jugent forscht)」に3度出場し、1974年には物理学部門で受賞した。ドイツ学術奨学財団英語版 (Studienstiftung des deutschen Volkes) の奨学金を受け、ミュンヘン工科大学でデータ処理を専門とする電気工学を学び、工学の学位を取得した[5]。しかし、授業でコンピュータに触れる機会が一切なかったことに不満を抱き、1975年にフルブライト奨学金を得て渡米[6]。翌1976年、カーネギーメロン大学計算機工学の修士号を取得した。

1977年、インテルのエンジニアであるジャスティン・ラトナー英語版からインターンシップの誘いを受け、シリコンバレーへ移る[6]。その直後、ラトナーがオレゴン州に転勤したため、ベクトルシャイムはスタンフォード大学電気工学博士課程への進学を選んだ。およそ5年後、テクノロジー業界での機会を追求するため、博士課程を中退している[4][7]

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経歴

要約
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初期のSunワークステーションのハードウェア

スタンフォード大学在学中、ベクトルシャイムはネットワーク機能を内蔵した高性能コンピュータ(ワークステーション)を設計した。このマシンは「スタンフォード大学ネットワーク英語版 (Stanford University Network)」の頭文字を取って「SUNワークステーション英語版」と名付けられ、ゼロックスパロアルト研究所 (Xerox PARC) で開発されたコンピュータ「Xerox Alto」に着想を得ていた。ベクトルシャイムはゼロックスにおいて「無給コンサルタント」として活動しており、報酬を受け取らない代わりに、研究所で行われている研究への自由なアクセス権を持っていた。当時、同研究所ではリン・コンウェイがワークステーションを用いてVLSI回路の設計を行っていた[4]

ベクトルシャイムの指導教官はフォレスト・バスケット英語版であり、1980年にはヴォーン・プラット英語版もSUNプロジェクトの運営に携わった。このプロジェクトは、スタンフォード大学計算機科学科および国防高等研究計画局 (DARPA) の支援を受けていた。このモジュラー型コンピュータは、V-Systemの開発をはじめとする研究プロジェクトや、初期のインターネットルーターなどに利用された。ベクトルシャイムはこのワークステーションの製造を他社に打診したが、反応は芳しくなかったという[4]

サン・マイクロシステムズの創業

VLSI設計向けのコンピュータを開発していた企業の一つにデイジー・システムズ英語版があり、当時ビノッド・コースラが同社に勤務していた。コースラは数年前にスタンフォード大学経営大学院を卒業しており、その同期であるスコット・マクネリオニキス・システムズ英語版で製造部門の管理を担当していた。コースラ、マクネリ、そしてベクトルシャイムは短い事業計画書を作成し[8]、1982年にベンチャーキャピタルから迅速に資金を調達した[4]。ベクトルシャイムはスタンフォード大学を休学してサン・マイクロシステムズを共同設立し、社員第1号となった。マクネリとコースラに加え、カリフォルニア大学バークレー校BSDUNIXオペレーティングシステムの開発に携わっていたビル・ジョイも参加。ジョイは一般に4人目の共同創業者とみなされている。しばらくの間、ベクトルシャイムとジョイはカリフォルニア州パロアルトのアパートで共同生活を送っていた[4]

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1988年頃に設計されたSPARCstation 1

最初の製品であるSun-1は、スタンフォード大学で設計されたCPUボードにメモリ拡張の改良を加え、板金製の筐体を採用していた。その年末までに、ベクトルシャイムが試作したイーサネット・インターフェースは、スリーコム製の市販ボードに置き換えられた[9]

サン・マイクロシステムズは1986年に新規株式公開 (IPO) を行い、1988年には売上高10億ドルを達成した。この頃、ベクトルシャイムは教育市場向けの小型で低価格なデスクトップコンピュータを設計するため、「UniSun」というコードネームのプロジェクトを立ち上げた。その成果がSPARCstation 1(通称「Campus」)であり、サンの新たな製品ラインの幕開けとなった[10]

他社での事業展開

1995年、ベクトルシャイムはサン・マイクロシステムズを退社し、高速ネットワーク・スイッチを開発するギガビット・イーサネット関連のスタートアップ企業グラナイト・システムズ (Granite Systems) を設立した。翌1996年、シスコシステムズが同社を2億2000万ドルで買収し、ベクトルシャイムは株式の約60%を保有していた[11]。買収後は、シスコのギガビット・システムズ事業部門の副社長兼ゼネラルマネージャーを務めたが、2003年12月に同社を退職し、新会社キアリア (Kealia, Inc.) の経営に専念することになった[12][13]

ベクトルシャイムは、グラナイト・システムズの共同創業者でもあったスタンフォード大学教授のデビッド・チェリトンとともに、2001年初頭にキアリアを設立した。同社はアドバンスト・マイクロ・デバイセズ (AMD) のOpteronプロセッサを用いた先進的なサーバー技術の開発に取り組んだ。2004年2月、サン・マイクロシステムズは株式交換によるキアリアの買収を発表し、この買収によりベクトルシャイムは上級副社長兼チーフ・アーキテクトとしてサンに復帰した[14][15]。キアリアのハードウェア技術は、後に同社のストレージ製品「Sun Fire X4500英語版」に採用された[16]

2005年、ベクトルシャイムはチェリトンとともに、クラウドコンピューティングソリューションを生業とする新たな高速ネットワーク企業アラストラ (Arastra) を設立した。アラストラは後にアリスタネットワークスへと社名を変更する。2008年10月、ベクトルシャイムはサン・マイクロシステムズを退社し、アリスタの会長兼最高開発責任者 (Chief Development Officer) に就任した。2度目のサン退社となったが、しばらくはサンの経営に顧問として関わったと述べている[16]

投資活動

ベクトルシャイムとチェリトンは、Googleへの最初の投資者の二人であり、1998年9月にそれぞれ10万米ドルを出資した。彼が創業者のラリー・ペイジセルゲイ・ブリンに小切手を渡した時点では、Googleはまだ法人として設立されていなかった。ベクトルシャイムが「Google」という社名を考案したという説もあるが、これは事実ではない。ただし、彼が創業者らにその名称で正式に会社を設立するよう促したのは確かである[17][18]

こうした投資により、ベクトルシャイムは最も成功した「エンジェル投資家」の一人として知られるようになった[19]。特に、コンピュータチップ設計用ソフトウェアを扱う電子設計自動化 (EDA) の分野で顕著な実績を上げている。彼はEDA分野で多数の企業に投資しており、その一つであるMagma Design Automation英語版における持ち株は約6000万ドルの価値があったとされる[要出典]。また、別のEDA系スタートアップCo-Design Automationにも初期から出資しており、同社は現在ほぼすべてのデジタルハードウェア設計に利用されているSystemVerilogを開発した企業である。

さらに、ベクトルシャイムはTapulous英語版iPhone向け音楽ゲームの開発企業)にも投資しており[20]、同社は2010年にウォルト・ディズニー・カンパニーに買収された[21]。また、サン・マイクロシステムズ時代の元同僚ジョージ・T・ハーバーとともに、2006年および2008年にワイヤレスチップ企業CrestaTechへ投資を行っている[22]

ベクトルシャイムは、ハーバーがこれまでに設立したすべてのスタートアップ企業にも投資している[要出典]。これには、CompCore(Zoran英語版が買収)、GigaPixel(3Dfxが買収)、Mobilygen(マキシム・インテグレーテッド・プロダクツが買収)、およびMoovweb英語版(モバイルおよびPC向けクラウドベース・インターフェースを提供)などが含まれる[23]

また、2008年に事業を終了したClaria Corporationの初期投資者であったとも報じられている[24]。さらに、2015年から2017年にかけては、自動攻撃緩和SaaSを提供するPerimeterXに出資している[25]

受賞

1999年、ベクトルシャイムはスミソニアン・リーダーシップ・アワード・フォー・イノベーション[26]およびスタンフォード・アントレプレナー・カンパニー・オブ・ザ・イヤー賞を受賞した。2000年には、コンピュータ・ワークステーションおよび高性能ネットワーク・スイッチの設計への貢献が評価され、全米技術アカデミーの会員に選出された。

2009年には、国際スーパーコンピューティング会議 (International Supercomputing Conference) のオープニングの基調講演を務めた[27]

2012年には、『IT Pro』誌の投票で「過去20年間でサーバー技術の革新に最も貢献した人物」に選ばれている[28]

SECとの和解

2024年、ベクトルシャイムは米国証券取引委員会 (SEC) によるインサイダー取引疑惑に関して和解した。彼は約100万ドルの民事制裁金を支払うこと、および5年間にわたり上場企業の役員・取締役を務めないことに同意した。

SECの発表によると、ベクトルシャイムはシスコシステムズによるアカシア・コミュニケーションズ (Acacia Communications) の買収提案に関する非公開情報を不正に利用したとされる。その情報を得た関係者および親族による違法なオプション取引により、40万ドル超の利益が生じたとSECは指摘している[29]

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私生活

ベクトルシャイムは人生の大半をアメリカ合衆国で過ごしているが、米国市民権の取得を試みたことはなく、現在もドイツ国籍を保持している[30][31]

脚注

関連文献

外部リンク

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