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アントニオ・カブリーニ
イタリアのサッカー選手 ウィキペディアから
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アントニオ・カブリーニ(Antonio Cabrini、1957年10月8日 - )は、イタリア・クレモナ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF(左サイドバック)。イタリアでは、初めての現代型サイドバックと考えられている[2]。ヨーロッパ3大カップ、ワールドカップ、インターコンチネンタルカップを全て制した初めての選手であった[2]。
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経歴
200年以上続く、大きな農場を営む富豪の家に生まれた[2][3]。1973年に地元のクラブチームであるクレモネーゼでキャリアをスタートさせ、僅か16歳でセリエCの舞台にデビューした[2]。2シーズン目にはレギュラーに定着した[2]。1975年からはアタランタとユヴェントスが共同で保有する形で、アタランタでプレーした[2]。
ユヴェントスがチームに加えることを決断し、1977年の2月13日に移籍[2]。そのシーズンはリーグ戦9試合で1得点、リーグ優勝とUEFAカップで優勝を果たした[2]。ユヴェントスではガエターノ・シレア、ディノ・ゾフらと強固なDF陣を形成した[2]。
ユヴェントスに在籍した13シーズンで、1985年のUEFAチャンピオンズカップ、インターコンチネンタルカップに優勝。さらに、6回のスクデット、2回のコッパ・イタリア、1回のUEFAカップ、UEFAカップウィナーズカップと多くのタイトルを獲得した。1980-81シーズンは、40試合で11得点を決めるなど、キャリアで最高のシーズンを送った[2]。1986-87シーズンに膝を負傷、1987年に手術をして以降はやや衰えも見られたが、シレアの不在時や引退後はキャプテンも務め、1989年まで在籍した[2]、通算では440試合出場52得点という記録を残した[2]。
その後、クラブでは1989年にボローニャに移籍。1991年に選手キャリアに幕を降ろした。 引退後は指導者の道へ進んだ。2012年からは、女子サッカーのイタリア代表のコーチを務めていた。
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代表経歴
イタリア代表としては1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会、6月2日のフランス戦で代表デビューを果たした[2]。そのまま左サイドバックのレギュラーに定着した。
1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会では、アルゼンチン戦で決勝ゴールを決めた[4]。決勝では、日頃PKキッカーを務めるアントニオーニの不在により、前半24分に獲得したPKを蹴るも失敗したが[3][2]、優れたパフォーマンスを見せ、イタリアは勝利し優勝を果たした[2]。
1980年の欧州選手権では、3位に入賞した[2]。1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会に出場したが、1987年に怪我で代表引退を表明した[2]。国際Aマッチ73試合出場9得点を記録した。
人物
- ジャチント・ファッケッティの系譜を受け継いだ左サイドバックだが、ファッケッティを攻撃的にした現代型のサイドバック[2]。フィジカルが強く、高い守備能力だけでなく、攻撃参加も持ち味で、強烈なシュート力を持ち、FKやPKのスペシャリストでもあった[2]。ユヴェントスの右サイドからのFKはミッシェル・プラティニではなく、ガブリー二が担当する、ことが多かった[3]。
- 1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会頃までは長めの髪であったが、友人であるチェーザレ・プランデッリと共に、髪の毛を切りに行ってところ、プランデッリとそっくりな髪形にされてしまい、以降は長めの髪でなくなったという[2]。
指導者歴
ACアレッツォ 2000-2001
FCクロトーネ 2001
ピサ・カルチョ2004-2005
ノヴァーラ・カルチョ 2005-2006
獲得タイトル
ユヴェントス
- セリエA 6回(1976-1977、19771978、1980-1981、1981-1982、1983-1984、1985-1986)
- コッパ・イタリア 2回(1978、1983)
- UEFAチャンピオンズリーグ 1回(1984-1985)
- UEFAカップ 1回(1976-1977)
- UEFAカップウィナーズカップ 1回(1983-1984)
- UEFAスーパーカップ 1回(1984)
- インターコンチネンタルカップ 1回(1985)
イタリア代表
- FIFAワールドカップ 1回(1982、優勝)
出典
外部リンク
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