トップQs
タイムライン
チャット
視点

イベリアのペトル

グルジアの聖人 ウィキペディアから

イベリアのペトル
Remove ads

イベリアのペトルグルジア語: პეტრე იბერი, ラテン文字表記: Petre Iberi, 413年頃 - 491年)は、イベリア王国(現在のグルジア東部)の王子、神学者また哲学者。初期キリスト教における大立者にしてネオプラトニズムの創始者の一人である。一部では偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースのペンネームで書かれた書物の著者の一人であるとされる[1]

概要 イベリアのペトル პეტრე იბერი, 全名 ...

グルジアでは初となる僧院をベツレヘムに設立し、ガザ近郊のマイウマ英語版主教となった。また晩年にはカルケドン派キリスト教英語版と対立した[2][3]

Remove ads

生涯

Thumb
ビール・エル・クット碑文はペトルと父に言及している

ペトルはイベリア王国の王家であるコスロー家英語版に生まれた。出生年は413年または417年頃とされている[2][4]。出生名は Murvan (あるいは Nabarnugios[4])。ペトルの父である王ボスマリオスは著名な哲学者ミトリダテス(または宦官ヨハネス)をラジカ英語版から招き、ペトルの教育にあたらせた。ペトルは12歳で政治的な人質としてコンスタンティノープルに送られ、東ローマ皇帝テオドシウス2世の皇后アエリア・エウドキアの支援のもとで英才教育を受けた[4][5]

その後、20歳になったペトルは師ミトリダテスと共に宮殿を後にし、パレスチナへの巡礼の旅に向かうことを決める[4]430年、ペトルは自身の僧院をベツレヘムに設立し(後に“ベツレヘムのグルジア修道院”として知られる)、445年には司祭となる。ミトリダテスを伴って近東の複数の国々を旅し、終にガザにほど近いマイウマ英語版に移り住む。

452年、半年の間マイウマの主教を務めた。ペトルはエジプトに逃れたが10年でパレスチナに戻り、数多くの支持者と弟子を集めた。弟子の一人であるヨハネス・ルフス英語版は、聖人伝記の著者であり、またマイウマの主教をペトルから継いだと考えられている[3]

ペトルは491年[5]に古代ヤブネの港町ヤブネ=ヤム英語版で死去。ガザ近くの彼の僧院に埋葬された[6]

複数の東方教会は、ペトルがカルケドン派キリスト教英語版の教義に対立していたと考えている[9]

Remove ads

脚注

関連項目

発展資料

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads