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イワン・ストロゴフ

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イワン・ストロゴフIvan Strogoff、本名:Omer van der Schüren1939年3月12日 - 2009年11月)は、ベルギー出身のプロレスラー

概要 イワン・ストロゴフ, プロフィール ...

北米イワン・コロフに先駆けるロシア人ギミックのパワーファイターとして、ヨーロッパ各国を主戦場にヒールのポジションで活躍した[1]

来歴

来日時のパンフレットでは、出身はベルギーだが両親はソビエト連邦からの移民であるとされる[1]スキンヘッドに口髭の巨漢ヒールとして欧州各国のトーナメントに出場し、1968年ハノーバー・トーナメントではレネ・ラサルテス清美川と対戦[3]。翌1969年5月18日、パリで行われたIWA世界タッグ王座の初代王者チーム決定戦にモンスター・ロシモフと組んで出場したが、豊登&ストロング小林に敗れ戴冠を逸した[4]

1970年3月、国際プロレスの『第2回ワールド・チャンピオン・シリーズ(第2回IWAワールド・シリーズ)』に初来日。欧州での因縁を残す清美川や小林、グレート草津サンダー杉山、そして前回優勝者のビル・ロビンソンとも覇を争った[1][5]。国際プロレスには1973年1月の『新春パイオニア・シリーズ』にもザ・プロフェッショナルラリー・ヘニングらと共に再来日している[6]

その後、ヨーロッパでは1974年8月27日に、ドイツミュンスターにてローラン・ボックと対戦[7]。同年10月にミュンヘンで開催されたトーナメンではミル・マスカラスから勝利を収め[8]、優勝のミシェル・ナドールと2位のボックに次ぐ3位の戦績を残した[9]。以降、1970年代後半はドイツを活動拠点に、オットー・ワンツパット・ローチビッグ・ジョン・クインらと抗争。1978年11月にはドルトムントにてドン・レオ・ジョナサンとの大型対決も行われた[10]

1980年代前半もドイツおよびオーストリアを主戦場に、ワンツが主宰していたCWA(キャッチ・レスリング・アソシエーション)などで活動。スティーブ・ライトトニー・セント・クレアーデビッド・テイラーなどの英国勢や、アメリカから遠征してきたエド・ウィスコスキーとも対戦した[11]

1984年8月には新日本プロレスへの参戦が発表されたが中止となり、11年ぶりの来日は実現しなかった。その後はリングを離れるも、1989年から1990年にかけて、CWAに単発出場していた[12]

2009年11月、70歳で死去[2]

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得意技

脚注

外部リンク

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