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ダグ・リンゼイ

アメリカ合衆国のプロレスラー ウィキペディアから

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ダグ・リンゼイDoug Lindsay、本名:Douglas Allen Lindzy1937年 - 2013年11月4日)は、アメリカ合衆国プロレスラー[1]インディアナ州ミシャワカ出身[2]

概要 ダグ・リンゼイ, プロフィール ...

ダグ・ギルバートDoug Gilbert)のリングネームで知られるが、1990年代にフレディ・クルーガーとして度々来日したダグ・ギルバートとは別人で、血縁関係もない[3]

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来歴

要約
視点

10代の頃から各種のスポーツで活躍し、ボディビルでは1955年カンザスシティで開催されたティーンエイジ・ミスター・アメリカのコンテストで優勝。地元のインディアナでも、1957年ウエイトリフティングレスリングのヘビー級タイトルを獲得した[3]

プロデビュー後は本名からダグ・リンゼイDoug Lindsay / Doug Lindsey)のリングネームで活動していたが、ジョニー・ギルバート(ギルバート・サンチェス)とタッグを組むようになったことを機に、1958年10月より中西部地区でダグ・ギルバートDoug Gilbert)と改名[3]。以降、ジョニー&ダグのギルバート・ブラザーズとして活動した[4]

ジョニーとのコンビ解消後もダグ・ギルバートのリングネームを用い、ベビーフェイスのポジションで各地を転戦。テキサスアマリロ地区では1961年3月22日にNWAインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した[5]

ミネソタAWAではディック・スタインボーンをパートナーに、ハイ&ローHigh & Low)なるタッグチームを結成[3]。自身がミスター・ハイMr. High)、スタインボーンがミスター・ロー(Mr. Low)と名乗り[3]1962年12月16日にAWA世界タッグ王座を獲得[6]。パワーファイターのギルバートはスタンド・レスリング、技巧派のスタインボーンはグラウンド・レスリングを得意とする対照的なキャラクターで人気を博した[3]

1964年4月にはレスリング・ワールド誌が選定した "Top 50 wrestlers" の1人に挙げられた[3]ネブラスカ州オマハを本拠地とするAWAのミッドウエスト地区ではレジー・パークスと組んで、1967年8月12日にミツ荒川&デール・ルイス1968年3月23日にマッドドッグ・バション&ボブ・オートンを破り、AWA中西部タッグ王座を2回獲得している[7]

1968年7月より、南部ジョージア地区でヒール覆面レスラーザ・プロフェッショナルThe Professional)に変身[3]。AWAでのパートナーだったスタインボーンをはじめ、ペッパー・ゴメスボブ・アームストロングエディ・グラハムなどから勝利を収め[8]、8月23日にはターザン・タイラーからNWAジョージア・ヘビー級王座を奪取[9]。戴冠中はジン・キニスキーNWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦した[10]。ジョージア王座は11月8日にジョニー・バレンタインに明け渡すも、12月6日の再戦でバレンタインから奪還している[9]

1971年2月、素顔のダグ・ギルバートとして日本プロレスの『ダイナミック・ビッグ・シリーズ』に初来日。2月20日に大阪府立体育館にてミル・マスカラスと組み、アントニオ猪木&吉村道明アジアタッグ王座に挑戦した[11]。シリーズ中は猪木やジャイアント馬場とのシングルマッチも行われ、外国人エース格のスパイロス・アリオンと組んで馬場&猪木のBI砲とも対戦した[12]

北米ではザ・プロフェッショナルのギミックでの活動を続け、1971年下期からはマッドドッグ&ブッチャー・バションが主宰していたモントリオールのGPW(グランプリ・レスリング)に参戦。7月6日にGPWヘビー級王座の初代チャンピオンに認定され、9月14日にエドワード・カーペンティアに敗れるまで戴冠した[13]。同地区ではジャン・フェレと名乗っていた頃のアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦しており[14]、当時のアンドレをボディスラムで投げたこともある[15]

1973年1月、覆面レスラーのザ・プロフェッショナルとして国際プロレスの『新春パイオニア・シリーズ』に来日。シリーズの外国人エースに迎えられ、1月16日に福岡市九電記念体育館にてストロング小林IWA世界ヘビー級王座金網デスマッチで挑戦[16]。1月25日の板橋大会ではラリー・ヘニングをパートナーに、小林&グレート草津が保持していたIWA世界タッグ王座に挑んだ[17]

1975年5月、同じくザ・プロフェッショナルとして新日本プロレスの『ゴールデン・ファイト・シリーズ』に来日。前半戦特別参加のアンドレ・ザ・ジャイアント、後半戦特別参加のタイガー・ジェット・シンに次ぐ外国陣営の副将格を務め、6月16日には宮城県スポーツセンターにおいて、アンドレのパートナーとなって猪木&坂口征二北米タッグ王座に挑戦した[18]

その後は素顔に戻り、1976年6月からは髭面の悪相ヒール、ガスハウス・ギルバートGashouse Gilbert)としてWWWFに登場。ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでは、8月7日と10月25日の定期戦でボボ・ブラジルと対戦[19][20]バロン・シクルナトーア・カマタケン・パテラなどと組んで、チーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフが保持していたWWWF世界タッグ王座にも度々挑戦した[21]

WWWF離脱後はテネシーノースカロライナを経て中西部のカンザス地区に参戦。ベビーフェイスのポジションに戻り、1978年8月31日にボブ・スウィータンからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー王座を奪取、10月7日にバック・ロブレイに敗れるまで保持した[22]。同地区ではブルーザー・ブロディキラー・カール・クラップワイルド・サモアンズとも対戦した[23]

キャリア末期の1979年からは古巣のAWAで活動。ボビー・ダンカンブラックジャック・ランザアイアン・シークスーパー・デストロイヤー・マークIIセシル・デュボアレイ・スティーブンスパット・パターソンジェシー・ベンチュラポール・エラリングらと対戦した(ビル・ロビンソンと組んでのタッグマッチではダンカン&スタン・ハンセンとも対戦している)[24]

引退後は往年の主戦場でもあったオマハでジムを経営[3]。同地におけるWWFハウス・ショーにも出場して、1985年8月2日にはレス・ソントン1986年4月27日にはカウボーイ・ボブ・オートンと対戦した[24]

晩年はアルツハイマー病を患い、2013年11月4日、76歳で死去[2][3]

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得意技

獲得タイトル

アメリカン・レスリング・アソシエーション
NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
  • NWAインターナショナル・ヘビー級王座(アマリロ版):1回[5]
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:4回[9]
  • NWAジョージア・タッグ王座:6回(w / アサシン2号、エル・モンゴル、ボビー・シェーン×2、スーパー・インフェルノ2号×2)[25]
  • NWAメイコン・タッグ王座:1回(w / スーパー・インフェルノ2号)[26]
  • NWA南東部タッグ王座(ジョージア版):2回(w / スーパー・インフェルノ2号)[27]
NWAハリウッド・レスリング
  • NWA "ビート・ザ・チャンプ" TV王座:1回[28]
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / マイク・ウェブスター)[29]
セントラル・ステーツ・レスリング
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー王座:1回[22]
グランプリ・レスリング
  • GPWヘビー級王座:1回[13]

脚注

外部リンク

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