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インド大臣
イギリスの内閣にかつて存在した閣僚職 ウィキペディアから
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インド大臣(インドだいじん、英: Secretary of State for India)は、イギリスの内閣にかつて存在した閣僚職である。インド植民地支配に関する事務を取り扱うインド省を統括した。1858年にインド統治が東インド会社による統治からヴィクトリア女王の直接統治に切り替えられた際にそれ以前のインド庁長官が改組されて成立した閣僚職であり、1937年にはインド=ビルマ大臣に改名されたが、1947年のインド・パキスタン独立と1948年のビルマ独立により廃止された。インド大臣[1]の他、インド担当大臣[2]とも表記される。
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歴史
要約
視点
エリザベス朝の1600年に勅許状によって成立した勅許会社イギリス東インド会社は東洋貿易を独占する権利、現地で政府を組織する権限、通貨発行権、軍隊組織権、特定の国への宣戦布告権などを認められており、徐々にインドへ浸透した。特に1757年にベンガル太守にプラッシーの戦いで勝利し、ムガル帝国皇帝よりベンガル州の徴税権を獲得するとイギリス東インド会社によるインド植民地支配が加速した[3]。
1784年にイギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)はインド法を制定し、イギリス政府内に東インド会社の監督を行うインド庁(Board of Control)を設置した。これによりインドは、東インド会社とイギリス政府の二重支配下におかれることになった[4]。
はじめインド庁は財務大臣、国務大臣、枢密顧問官4人の合計6人で運営されたが、1793年からインド庁長官(President of the Board of Control)のポストが設置されることになった[4]。
インド庁は法律上東インド会社の政務にだけ参画することになっていたが、実際には商務にも口を出すことが多く、やがて会社役員会を差し置いて会社を支配するようになった。インド総督の任免もイギリス政府が事実上決定し、会社役員会はイギリス政府の人選に都合が悪いと感じた場合に拒否権を発動するに留まった。そのため徐々に役員会は不要と考えられるようになり、1833年特許法では会社役員会はインド庁の諮問機関に格下げされるに至った[5]。
1858年にインド大反乱が鎮圧されたのを機に東インド会社によるインド統治はヴィクトリア女王(女王陛下の政府)による直接統治に切り替えられた。この際にインド庁と役員会は廃止され、インド大臣職とインド省が設置された[6]。
インド大臣とインド総督の関係はインド大臣がロンドンから命令を発し、現地に派遣されるインド総督がその命令を実行することが建前だったが、インド総督はあくまでインド皇帝(イギリス国王)の名代(Viceroy)であってインド大臣の代理(Agent)ではないとも定められていた[1]。そのため現実にはインド大臣とインド総督の関係に決まったパターンはなく、個々の大臣・総督によって大きく異なった。第9代エルギン伯ヴィクター・ブルースのような官僚的な人物が総督になるとインド総督はインド大臣に忠実に行動することが多かったが(エルギン伯は一日に二度インド省に連絡し、指示を仰いだといわれる)、初代カーゾン男爵ジョージ・カーゾンのような実力者が総督となった場合には「インド大臣はインド総督府の駐英大使に過ぎない」と揶揄されるほど影が薄くなることもあった。ただ一般的な傾向として1870年にインドとロンドンの間に電信が開通した後、インド大臣のインド植民地統治への影響力は大きくなったといえる[7]。
1937年に英領インド帝国からビルマが切り離されたのに伴い、インド省と別にビルマ省が設置されたが、大臣はインド大臣と同じ人物が務め続けることになり、インド大臣はインド=ビルマ大臣に改名された。しかし1947年にインドとパキスタンが独立したことでまずインド省とインド大臣のポストが廃止され、ついで1948年のビルマ独立でビルマ省とビルマ大臣も廃止された。
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歴代大臣
要約
視点
インド大臣 (1858-1937)
インド=ビルマ大臣 (1937–1947)
ビルマ大臣 (1947–1948)
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脚注
参考文献
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