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エストニア・ソビエト社会主義共和国

ソビエト連邦の構成共和国 ウィキペディアから

エストニア・ソビエト社会主義共和国
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エストニア・ソビエト社会主義共和国(エストニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、エストニア語: Eesti Nõukogude Sotsialistlik Vabariikロシア語: Эстонская Советская Социалистическая Республика)は、ソビエト連邦構成共和国の一つである。エストニアSSRは、第二次世界大戦中の1940年6月16日 - 17日のソ連軍の侵攻・占領から1ヶ月後の1940年7月21日に、それまで独立していたエストニア共和国に代わって、名目上設立された。占領したソ連赤軍の支援を受けたスターリニスト傀儡政権が発足し[1]、エストニアはソ連の選挙区となった後、1940年8月6日に「連邦共和国」としてソ連に編入された[2][3]

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エストニア・ソビエト社会主義共和国
Eesti Nõukogude Sotsialistlik Vabariik (エストニア語)
Эстонская Советская Социалистическая Республика (ロシア語)
エストニア共和国 (1918年-1940年)
エストニア共和国 (1944年)
1940年 - 1941年
1944年 - 1991年
エストニア共和国 (1944年)
エストニア
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国旗 国章
国の標語: Kõigi maade protetaarlased, ühienege! (エストニア語)
万国の労働者よ、団結せよ!
国歌: Eesti Nõukogude Sotsialistliku Vabariigi hümn(エストニア語)
エストニア・ソビエト社会主義共和国国歌
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エストニア・ソビエト社会主義共和国の位置

大多数の国家[4]は、エストニアのソ連編入を法的には認めず、ソ連による実効支配を事実上認めなかったか、一切認めなかった[5][6]。旧政府の名のもとにまだ機能していたエストニアの外交官や領事らを引き続き公認する国家も存在した[7][8]。この非承認政策は、法的継続の原則を生み出した。この原則の趣旨は、法的にはエストニアは1940年から1991年まで占領下にあっても独立国家のままであるというものであった[9]

1988年11月16日、エストニアは当時ソ連支配下にあった国々の中で初めて、モスクワの中央政府から国家主権を宣言した[10]。1990年3月30日、新たに選出された議会は、エストニア共和国が1940年以降違法に占領されていたことを宣言し、国の完全な独立の回復のための移行期間を正式に発表した[11]。その後、1990年5月8日に最高ソビエトは、エストニア・ソビエト社会主義共和国という国名とソ連のシンボルが含まれる国章を廃止し、エストニア共和国を国の正式名称として採用した[12]。 エストニア議会は、1991年8月20日に完全な独立の回復を宣言した。ソ連は1991年9月6日に、エストニアの独立を正式に承認した。

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歴史・沿革

要約
視点

第二次世界大戦

1939年8月23日に調印された独ソ不可侵条約によって、ソ連はエストニアを第二次世界大戦の勃発の1週間前に、秘密裡に「勢力圏」に組み込んだ。1939年9月24日、中立国であったエストニアの主要な港湾がソ連海軍の軍艦により封鎖され、ソ連の爆撃機は首都タリン周辺を飛行し始めた[13]。ソ連は「ヨーロッパ戦争の期間中」にエストニア領内へのソ連軍基地の建設とこれらの基地に25,000人の兵士の配置することの許可を要求した[14]。 エストニア政府はこの最後通牒に屈し、1939年9月28日にそれに応じた相互援助協定に署名した。

第二次世界大戦が起こると、1940年ラトビアリトアニアと共にソ連に占領・編入される。独ソ戦勃発後は1941年から1944年まで、ナチス・ドイツの占領、オストラント総督府編入にあった。第二次世界大戦末期にソビエト連邦軍による再占領の後、再度ソビエト連邦構成共和国となり社会主義化が行われた。1991年8月20日にソ連から独立回復

ソ連のエストニア占領

1940年6月12日、ソビエト・バルチック艦隊にエストニアの全面的な軍事封鎖命令が下された[15][16]。1940年6月14日、ナチス・ドイツによるパリ陥落に世界の目が向けられているなか、ソ連によるエストニアの軍事封鎖が発効した。ソ連の爆撃機2機がタリンからヘルシンキに向けて飛行していたフィンランドの旅客機「カレヴァ」を撃墜した。「カレヴァ」にはタリン、リガ、ヘルシンキにある米国公使館から届いた外交文書3通が積まれていた[17]。1940年6月16日、ソ連のNKVD軍はエストニア、ラトビア、リトアニアの国境検問所を襲撃した[18][19]スターリンは、1939年の相互援助条約が破られたと主張し、各国に新政府の樹立を要求する6時間の期限付の最後通牒を突きつけ、クレムリンから閣僚名簿も提示した[20]。エストニアに対するソ連の最後通牒は1940年6月16日に提示された。エストニア政府はパリ不戦条約に従い、最後通牒に軍事的対応をしないことを決定した。国境と国内の両方で、ソ連の圧倒的な軍事的優位が確認されたため、流血と全面的な戦争を避けるために無抵抗命令が出された[21]

1940年6月16日から17日にかけて、9万人の追加のソ連軍の支援を受けて、赤軍はエストニアの軍事基地から進軍し、エストニア共和国の全領土を占領した[22][23]エストニア国防軍とエストニア国防同盟の大半が命令通りに降伏し、赤軍によって武装解除された。タリンのラウア通りに駐留するエストニア独立通信大隊のみが武装抵抗を開始した。ソ連軍は6両の装甲戦闘車両の支援を受けた増援部隊を投入し、ラウア通りの戦いは数時間続き、日没まで続いた。エストニア側では死者1名、負傷者数名、ソ連側では死者約10名、負傷者多数を出した。最終的に交渉により軍事抵抗は終わり、独立通信大隊は降伏して武装解除された[24]

1940年6月18日までに、エストニア、ラトビア、リトアニア占領のための本格的な軍事作戦は完了した[25]。その後の数日間、ソ連軍はタリンや他の大都市でスターリン主義的な「デモ」を組織し、支援した[26]。その後、国家行政機関は解体され、ソ連幹部がとって代わり、大弾圧が実施された[27]タイム誌は6月24日、パリ陥落の1週間前に、赤軍の「50万人の男たちと無数の戦車」が「征服欲に取り憑かれたドイツ」に対する[ロシアの]前線の守備に動員されたと報じた[28]。1940年6月21日、エストニア共和国に対するソ連の軍事占領は完了した[29]。 その日、コンスタンティン・パッツ大統領(1940年7月30日にロシアSFSRのウファに送られ、数週間後に逮捕)は、装甲車両で武装した赤軍部隊に護衛された「デモ」隊が大統領の邸宅に到着した後、アンドレイ・ジダーノフが任命したヨハンネス・ヴァレスの傀儡政権を承認するよう圧力をかけられた。タリンのピック・ヘルマン塔のエストニア国旗は赤旗によって置き換えられた。

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脚注

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関連項目

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