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エドワード・ラッセルズ (初代ハーウッド伯爵)
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初代ハーウッド伯爵エドワード・ラッセルズ(Edward Lascelles, 1st Earl of Harewood、1740年1月7日 – 1820年4月3日)は、イギリスの政治家、貴族。庶民院議員を務めた。従兄にあたる初代ハーウッド男爵エドウィン・ラッセルズの相続人として広大な領地を有し、政府への支持もあり叙爵申請を認められた[1]。

1799年時点のグレートブリテン王国における百万長者(100万ポンド以上の財産を所有する人物)の1人であり、290万ポンド(2023年時点の3.6億ポンドと同等[2])を所有した[3]。
生涯
要約
視点

エドワード・ラッセルズ(Edward Lascelles、1702年2月25日洗礼 – 1747年10月31日、ダニエル・ラッセルズの三男)と妻フランシス(1761年5月18日没、ガイ・ボールの娘)の次男として[4]、1740年1月7日にバルバドスで生まれた[5]。兄ヘンリーは1755年に17歳で亡くなった[4]。父はバルバドスで関税徴税人を務めたが、エドワードが7歳のときに死去した[4]。
1761年イギリス総選挙でノーザラートン選挙区から出馬して、無投票で庶民院議員に当選した[6]。ノーザラートンではラッセルズ家とピアース家(Peirse)が自治邑土地保有態様のほとんどを保有しており、選挙区を支配していたため、両家がそれぞれ1議席を指名していた[6]。このときはピアース家の当主が未成年だったため、2議席目もラッセルズ家が占有し、エドワードが当選した[6]。1768年イギリス総選挙でも無投票で再選したが、1774年イギリス総選挙ではピアース家が2議席目を取り戻し、エドワードは議員を退任した[6]。1度目の議員期では従兄(父の異母兄の息子)にあたるエドウィン・ラッセルズ(同じくノーザラートン選出の庶民院議員)と常に同じ立場をとり、庶民院で演説した記録はなかった[7]。
1790年イギリス総選挙ではエドウィンがハーウッド男爵に叙されたため[7]、代わりにエドワードが出馬して当選した[8]。2度目の議員期では1791年にスコットランドにおける審査法廃止に反対、1796年3月に奴隷貿易廃止に反対した[1]。
エドウィンに子女がおらず[4]、爵位が1代で廃絶することは明らかだったため、エドワードは1794年8月に首相小ピットに対しハーウッド男爵への叙爵を申請した[1]。1795年にエドウィンが死去すると、男爵位は廃絶したものの、遺産はエドワードが相続した[5]。そして、叙爵への内諾を得たエドワードは1796年イギリス総選挙で出馬せずに議員を退任[1]、以降ノーザラートンにおけるラッセルズ家の議席は息子エドワードとヘンリーが占めた[8]。1796年6月18日、グレートブリテン貴族であるヨーク州ハーウッドにおけるハーウッド男爵に叙された[5]。
男爵に叙された後は伯爵への昇叙を目指し、1798年5月と6月に小ピットに対し2度申請したものの、拒否されている[1]。1804年に第2次小ピット内閣が成立するとハーウッド男爵は再び伯爵への昇叙を申請、最終的にはリヴァプール伯爵内閣期に認められた[1]。1812年9月7日、連合王国貴族であるラッセルズ子爵およびヨーク州におけるハーウッド伯爵に叙された[5]。
1820年4月3日に死去、同名の長男エドワードに先立たれたため次男ヘンリーが爵位を継承した[5]。
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家族

1761年5月12日、アン・シャロナー(Anne Charloner、1805年2月23日没、ウィリアム・シャロナーの娘)と結婚[5]、2男2女をもうけた[9]。
- フランシス(1762年6月11日[9] – 1817年3月31日) - 1784年10月4日、ジョン・ダグラス閣下(Hon. John Douglas、1756年7月1日 – 1818年5月1日、第14代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスの息子)と結婚、子供あり。第17代モートン伯爵ジョージ・ダグラスの母[10]
- エドワード(1764年1月10日 – 1814年6月3日) - 庶民院議員、生涯未婚[5]
- ヘンリー(1767年12月25日 – 1841年11月24日) - 第2代ハーウッド伯爵[5]
- メアリー・アン(1775年11月2日 – 1831年6月10日) - 1801年4月20日、リチャード・ヨーク(Richard Yorke)と結婚[9]
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出典
外部リンク
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