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カトリック宮津教会

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カトリック宮津教会(カトリックみやづきょうかい)は、京都府宮津市宮本にあるカトリックキリスト教会[1]。2016年の丹後地方(旧宮津ブロック)6小教区の統合後は「カトリック丹後教会 宮津教会堂」が正式名称である[2][3]京都司教区に属する。教会内の聖ヨハネ天主堂は2024年(令和6年)1月19日に「宮津洗者聖若翰天主堂(みやづせんじゃ よはね てんしゅどう)」の名称で国の重要文化財に指定されている[4][5]

概要 カトリック丹後教会 宮津教会堂, 情報 ...
概要 カトリック宮津教会, 所在地 ...
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沿革

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ルラーブ会館

1885年(明治18年)に日本にやってきたフランス人宣教師である神父のルイ・ルラーブは、1888年(明治21年)に与謝郡宮津町での伝道を開始する。ルラーブは福井県南部(若狭)から兵庫県北部(但馬)までの範囲を受け持っていた[6]。1895年(明治28年)に地元の有力者である田井五郎衛門から土地の寄贈を受け[6]、1895年(明治28年)に聖ヨハネ天主堂の建設に着工すると、1896年(明治29年)に竣工、宮津カトリック教会の献堂式が行われた[1][7]

1907年(明治40年)には教会の敷地内に宮津裁縫伝習所(京都暁星高等学校の前身)が設立された[6]。1927年(昭和2年)には北丹後地震でこの地域が大きな被害を受け、戸塚文卿を中心とするカトリック医療団が救護活動を行った[6]。1932年(昭和7年)には聖母訪問会が宮津町を訪れ、1933年(昭和8年)には宮津暁星裁縫学校(京都暁星高等学校の前身)が開校した[6]。1935年(昭和10年)にはルラーブの来日50周年が祝われ、1936年(昭和11年)には宮津暁星幼稚園が開園した[6]。1941年(昭和16年)にはルラーブが83歳で死去した[6]

1950年(昭和25年)から宮津教会はレデンプトール会が担当するようになった[6]。1989年(平成元年)にはルラーブが宮津を訪れて100周年の記念行事として、信徒会館であるルラーブ会館が建設された[6]。1996年(平成8年)5月6日には京都教区長の司教田中健一によって献堂100周年の記念ミサが捧げられた[6]

2019年(令和元年)、聖ヨハネ天主堂の京都府指定有形文化財への指定が答申され[8][9]、2021年(令和3年)11月5日の告示で正式に指定された[10]。2023年(令和5年)には国の重要文化財への指定が答申され、2024年(令和6年)1月19日の告示で正式に指定された。

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建築

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東面

聖ヨハネ天主堂は木造平屋建であり、三廊式バシリカ形式が採用されている[1]。建築面積は210平方メートル[1]。設計はルラーブ自身であり、施工は地元の大工である太井正司[1]ロマネスク様式を基調としており、交差ヴォールトの形状を模した天井、クロケット・キャピタルを持つ独立柱など、細部にわたって装飾性が高い[1]。円柱には欅材が用いられ[11]、床は畳敷きであるなど[1]、和洋折衷の教会建築である[11]

建築形式や手法には1890年(明治23年)に完成したカトリック河原町教会・初代聖堂(現在は愛知県犬山市博物館明治村に移築)との共通点が多い[1]。天主堂は小規模ではあるものの、長崎県長崎市大浦天主堂に匹敵するほど古いものであり[7]、「日本で2番目に古いカトリック天主堂」[6][12]、「現役では日本最古の木造教会堂」とされる[11][13]。1927年(昭和2年)の北丹後地震では一部が損傷し、玄関周りや外壁仕上げなどが改修された[1]。京都府文化財保護基金によって「京都の明治文化財」に指定されている[7]。信徒のほかに、観光客が年間1万人ほど訪れるという[14]

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基本情報

脚注

参考文献

外部リンク

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