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カールスルーエ (軽巡洋艦・3代)

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カールスルーエ (軽巡洋艦・3代)
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カールスルーエ (Karlsruhe) は、第一次世界大戦終結後、ドイツヴァイマル共和政)がヴェルサイユ条約の規定下で建造、ヴァイマル共和国軍海軍 (Reichsmarine) が運用した軽巡洋艦[注釈 1]ケーニヒスベルク級軽巡洋艦の一隻[注釈 2]。 艦名はバーデン地方の都市カールスルーエにちなむ[注釈 3]練習艦として遠洋航海に用いられ[5][6]、幾度か大日本帝国を訪問したこともある。

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ナチス再軍備宣言により、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) 所属になった。第二次世界大戦開戦時は改装工事中であった[7]ドイツ軍北欧侵攻ヴェーザー演習作戦[8]に従事中の1940年(昭和15年)4月9日、イギリス潜水艦トゥルーアントの魚雷攻撃により沈没した[9]

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艦歴

要約
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上空から見た艦影。船体の中心線から、2番主砲と3番主砲がずれて配置されている[3]

ヴァイマル共和国軍が1920年代後半に建造したケーニヒスベルク級軽巡3隻(ケーニヒスベルク、カールスルーエ、ケルン)は、“K級軽巡洋艦”や[10]、“3K巡洋艦”と呼ばれることもある[注釈 4]ハンツ・ツェンカー英語版ドイツ語版海軍総司令官の指揮下で建造される[12]。カールスルーエは1926年(大正15年)7月27日、キールドイチェヴェルケ社で起工[1]。1927年(昭和2年)8月20日に進水[1]。1929年(昭和4年)11月6日に就役する[13]

第二次世界大戦前には海外への訓練航海などに従事した。1930年(昭和5年)5月24日から12月12日までアフリカ方面などへの航海をおこなう。1931年(昭和6年)11月30日から1932年(昭和7年)12月8日まで東南アジア、アメリカ方面へ航海。

1933年(昭和8年)1月30日、ナチス権力掌握によりヒトラー内閣が成立する。同年10月14日から1934年(昭和9年)6月15日まで再び東南アジア、ハワイ諸島[14][注釈 5]、アメリカ方面へ航海。同年10月22日から1935年(昭和10年)6月15日までアメリカ方面への航海をおこなう。この時のカールスルーエ艦長は、のちのライン演習作戦ドイツ戦艦ビスマルク」と運命を共にしたギュンター・リュッチェンスであった[15](カールスルーエ艦長の在任期間は1934年9月~1935年9月)。

カールスルーエ(リュッチェンス艦長)が航海中の1935年3月16日、ナチス・ドイツ再軍備宣言をおこない、ヴァイマル共和国軍 (Reichswehr) はドイツ国防軍 (Wehrmacht) となる。それにともない、ドイツ共和国海軍 (Reichsmarine) もドイツ海軍 (Kriegsmarine) に改編された。 本艦の艦長がレオポルド・ジーメンス英語版ドイツ語版中佐に交代し、同年10月21日から1936年(昭和11年)6月8日まで東南アジア、日本[16]、アメリカ方面への航海をおこなう。一例として、2月21日から3月2日にかけて九州長崎港に滞在する[17]。日本海軍の妙高型重巡洋艦足柄羽黒)などが停泊しており、2月24日にはジーメンス中佐(カールスルーエ艦長)と羽黒艦長鮫島具重大佐が双方の艦を訪問した[18]

この年にスペイン内戦が始まると、ヨーロッパに戻ったカールスルーエもポケット戦艦などと共にスペイン海域に派遣された[19]。 1937年(昭和12年)5月24日、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した日本海軍の重巡「足柄」が[20][21]ユトランド半島キール運河を通過して、キール港に到着した[22]。カールスルーエはシュペー号と共に足柄を出迎えた[23]

ケーニヒスベルク級軽巡は、台風で船体に亀裂が生じた事もあり、船体強度や復元性能に不安を抱えていた[10]。1938年下旬よりウィルヘルムスハーフェン造船工廠で船体強度の改善工事をおこなうが、この改造を実施したのはカールスルーエだけであった[10]。船体幅を1.6メートル拡大して対空高角砲を強化したため、満載排水量は約650トン増大し、最大速力は30ノット以下になった[10]。1939年(昭和14年)9月初頭、第二次世界大戦がはじまる。11月、本艦の改装工事が終わり、訓練に従事した[10]

1940年(昭和15年)4月初旬、ドイツ軍はヴェーザー演習作戦を発動し、ノルウェー攻防戦がはじまる[24]。この北欧侵攻作戦で、カールスルーエと魚雷艇母艦ツィンタウドイツ語版は、水雷艇などと共にクリスチャンサンアーレンダール攻略を実施することになった[25]ヴェーザー演習作戦、ドイツ海軍戦闘序列)。 上陸部隊を載せた後、カールスルーエは4月8日に水雷艇ルクス (Luchs) とゼーアドラー (Seeadler) に伴われてブレーマーハーフェンを出撃した。途中で水雷艇グライフドイツ語版英語版、ツィンタウ 、Sボート部隊と合流し、濃い霧の中を目的地に向かって進んだ。4月9日朝、部隊はクリスチャンサンのあるフィヨルドへ侵入を開始した。ノルウェーの要塞からの砲撃を受けるが、カールスルーエは何度か攻撃をおこない、クリスチャンサンの占領に成功した。

同日19時、「カールスルーエ」は水雷艇3隻(ルクス、ゼーアドラー、グライフ)を伴って出港し、帰途に就いた[26]。20時ごろ、イギリス潜水艦トルーアント英語版の攻撃により、「カールスルーエ」に魚雷が命中した[27]。トルーアント(Christopher Haynes Hutchinson艦長)は10本の魚雷を発射し3度爆発音を聞いているが、ドイツ側の報告では命中魚雷は1本となっている[27]。「カールスルーエ」の損害は大きく、ルクスとゼーアドラーが乗員を収容したあと、22時50分にグライフから魚雷2本が打ち込まれ、「カールスルーエ」は沈没した[28][注釈 6][注釈 7]

長年、ノルウェーを攻撃したドイツの大型艦の中で唯一沈没場所が不明だったが、2020年9月、ノルウェー沖水面下488mの海底で80年ぶりに発見された。発見の3年前、送電網システムを運営するノルウェーの国営企業がソナーによる海底ケーブルの検査中に確認していたが、2020年夏にエンジニアらが作業船で更なる調査を行い、沈没位置を検証した。[30]

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出典

参考文献

関連項目

外部リンク

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