トップQs
タイムライン
チャット
視点

ガリレオ・ガリレイ (潜水艦)

ウィキペディアから

Remove ads

ガリレオ・ガリレイ (Galileo Galilei) は、イタリア海軍潜水艦アルキメーデ級

さらに見る 艦歴, 性能諸元 ...
Remove ads

艦歴

1931年10月15日起工。1934年3月19日進水。同年10月16日竣工。

スペイン内戦に参加。その後紅海に配備される。

イタリアが第二次世界大戦に参戦した1940年6月10日に「ガリレオ・ガリレイ」は出撃し、10月16日にバブ・エル・マンデブ海峡を通過[1]。同日、オマーン湾でノルウェーのタンカー「ジェームス・ストーブ (James Stove) 」(8215トン)を停船させ、乗組員の退船後に魚雷で沈めた[2]

6月18日、ユーゴスラビアの貨物船「ドラバ (Drava) 」を臨検[3]。次いで16時ごろイギリス軍機と交戦した[4]。19時30分、イギリスのスループ「ショアハム」が「ガリレオ・ガリレイ」を発見[4]。爆雷攻撃を実施後、追跡をトローラー「ムーンストーン」に引き継いだ[4]。6月19日2時30分に「ガリレオ・ガリレイ」は浮上したが、この時エアコンが壊れており、中毒患者が出ていた[4]。エアコンには有毒なクロロメタンが使用されていた[5]

6月19日11時37分、「ムーンストーン」はASDICで「ガリレオ・ガリレイ」を捉えた[4]。「ムーンストーン」は爆雷を投下[4]。一方、「ガリレオ・ガリレイ」の艦長Nardiは潜望鏡で見て敵艦の武装は弱いと確信[6]。「ガリレオ・ガリレイ」は浮上し砲戦を挑んだ[6]。当時のイタリア潜水艦長は艦の搭載砲と水上速力を信頼しており、水上戦も厭わなかった[7]。しかし、荒れた海などのため「ガリレオ・ガリレイ」の砲撃が正確さを欠く一方、「ムーンストーン」の砲撃は「ガリレオ・ガリレイ」の艦橋に続けて命中[6]。「ガリレオ・ガリレイ」では艦長以下士官がほぼ全員死亡した[7]。誰かがエンジンを止めると、イタリア人たちは白旗を振って艦から出てきた[6]。おそらく、彼らはクロロメタン中毒になっていた[6]。この戦闘でのイタリア側の死者は16名であった[8]

イギリス人は「ガリレオ・ガリレイ」のエンジンを始動させ、駆逐艦「カンダハー」が曳航してアデンへ持っていった[9]

イタリア側はコードブックが敵の手に渡ったものと判断して暗号を変更したが、実際にイギリス側が入手したのはコードブックではなく作戦命令書であり、その情報を元にイタリア潜水艦「ルイジ・ガルヴァニ」を沈めた[10]

1942年に「ガリレオ・ガリレイ」はイギリス海軍の潜水艦「X2」となる。1946年1月1日に除籍後、解体処分された。

Remove ads

脚注

参考文献

参考図書

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads