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ギルバート諸島
16の環礁とサンゴ島の連なり。太平洋 ウィキペディアから
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ギルバート諸島 (ギルバートしょとう、Gilbert Islands) は、太平洋にある16の珊瑚礁の島および環礁からなるキリバス領の諸島。
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歴史
イギリス統治
ギルバート諸島にはヨーロッパ人が発見する数世紀前からミクロネシア人が住んでいた。
この諸島の最初の発見の記録は1765年、ドルフィン号 (HMS Dolphin) のバイロン司令官による南東部の島ニクナウの発見である。1788年にはシャーロット号 (HMS Charlotte) のトマス・ギルバート船長とスカボロー号 (HMS Scarborough) のジョン・マーシャル船長がアパママ (Apamama)、クリア、アラヌカ、タラワ、アベイアン、ブタリタリ(マキン環礁)、マキンを発見した。その後、多くの船が中部太平洋の航海中にギルバート諸島を通った。アメリカ合衆国探検遠征隊の2隻の船、ピーコック号 (Peacock) とフライングフィッシュ号 (Flying Fish) はハドソン艦長指令のもと何度もギルバート諸島を訪れ、多くの時間を費やして海図の作成にあたった。
1892年5月27日、ロイヤリスト号 (HMS Royalist) のデーヴィス船長によってイギリスの保護領と宣言された。1916年、ギルバート諸島はエリス諸島(現ツバル)とともにイギリスの植民地となった。
第二次世界大戦
1941年12月に開戦すると、イギリスとの間に開戦した日本軍は、すぐにブタリタリ(マキン環礁)およびタラワに侵攻し、12月10日には占領した。日本軍侵攻時、原住民らは部族意識を持ち、イギリスの植民地政府に邪魔されずに自治を行っていた。彼らは日本の支配下に入ることにも不満であり、日本はそれを変えられなかった。
1942年8月17日には、アメリカ軍がブタリタリに奇襲攻撃を行った(マキン奇襲)。これは第2海兵襲撃大隊の約220名の海兵隊員によるもので、潜水艦2隻に分乗し、島に潜入した。島を防衛する日本軍の第62警備隊マキン派遣隊(約70名)と交戦、日本軍は半数が戦死するなど大損害を受けたが、アメリカ軍は翌日に撤退した。この攻撃は、日本軍に島の防衛力強化の必要性を認識させた。
日本軍は1942年9月からギルバート諸島の守備隊を増強し、翌1943年中にベティオ (Betio) を中心としたタラワ環礁と、ブタリタリに守備隊が置かれた。他のギルバート諸島の島にはほとんど兵力が配置されなかった。
1943年11月20日、アメリカ第2海兵師団がタラワとブタリタリに侵攻し、占領した(タラワの戦い、マキンの戦い)。そして、ギルバート諸島は1944年2月のマーシャル諸島への侵攻の拠点に使われた。
キリバス
1945年8月の第二次世界大戦後にはイギリスの統治下に復帰した。1971年に植民地は自治権を持ち、1976年から1978年にエリス諸島が分離され、1979年にキリバスとして独立し、その一部となった。
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産業
ギルバート諸島の主要産業はバナバ島 (Banaba Island) とファニング島 (Fanning Island) で採掘された鉱石からのリン酸肥料の生産である。加えていくつかの島ではココヤシが栽培されている。
住民
ギルバート諸島の島・環礁
要約
視点
ギルバート諸島の島はほぼ南北に並んでいる。以下に緯度順に北側から列挙する。
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脚注
関連項目
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