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ジーニョ
ブラジルのサッカー選手 ウィキペディアから
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ジーニョ (Zinho) ことクリザン・セザル・ジ・オリヴェイラ・フィーリョ (Crizam César de Oliveira Filho 1967年6月17日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ州ノヴァ・イグアス出身の元サッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
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クラブ経歴
要約
視点
ブラジル時代
1986年にフラメンゴでキャリアデビュー。フラメンゴではジーコ、ベベット、ジョルジーニョ、レオナルドらと共にプレーした。
フリューゲルス時代
1995年、パルメイラスのチームメイトのセザール・サンパイオ、エバイールと共に日本の横浜フリューゲルスへ移籍し、ブラジルトリオ(パルメイラストリオとも)を形成。中盤のコンダクターとしてゲームメークを担い、初年度の年間順位こそ振るわなかったものの、在籍期間中に優勝を狙えるまでクラブを飛躍させた[2]。Jリーグ初ゴールは1995年4月29日の名古屋グランパス戦[3]、11月15日のセレッソ大阪戦では初の複数ゴールを決めた。
1996年、オタシリオ監督が就任し、ブラジルトリオが真価を発揮しだすとフリューゲルスは快進撃の勢いでリーグ中断前の15節を終えて首位で折り返す。ただ後半戦で、鹿島アントラーズ、名古屋グランパスエイトとの優勝争いの末、鹿島とは勝ち点3差、名古屋とは得失点差で競り負け、3位に終わった[4]。22節終了時には早くも二桁アシストを記録するなど、年間を通じて多くのアシストを決め[5]、この年のアシスト数はストイコビッチと並んでリーグ最多であった。また、このシーズン、週刊サッカーダイジェストの年間を通じての平均採点では、ジョルジーニョに次いで第2位にランクインするなど、年間を通じて高いレベルのプレーを披露した[6]。この年の5月18日、第15節鹿島戦で決めた直接FKがJリーグ30周年ベストゴールのフリーキック部門にノミネートされた[7]。
1997年、1stステージ、第16節清水エスパルス戦でゴールを決め4-3での勝利に貢献(このゴールがJリーグラストゴールとなった。)[8]、最終節まで鹿島アントラーズとの激しい優勝争いの末、2ポイント及ばず、フリューゲルスはstステージ2位に終わった[9]。3年間で通算83試合21得点の記録を残した[3]。1997年の1stステージ終了後、ブラジル代表としてフランスW杯出場を目指すためパルメイラスに複帰[10]。パルメイラスとの契約には、契約が切れる1999年12月にフリューゲルスが優先的に交渉出来る約定が含まれていた[10]。本人は「必ずフリューゲルスに復帰するという約束は出来ないが、出来れば戻ってきたい。」と話していた[10]。
ブラジル復帰後
パルメイラスでは1999年のリベルタドーレス杯の決勝でデポルティーボ・カリをPKの末破り優勝(2ndレグではPK戦で1人目のキッカーを務めたが、これを失敗した[11]。)、同年、パルメイラスの一員としてセザール・サンパイオらと共に日本で開催されたインターコンチネンタルカップ(通称トヨタカップ)に出場したが、試合はマンチェスター・ユナイテッドに0-1と敗れた[12]。
その後、ブラジル国内のクラブチームを渡り歩き、2006年にUSLのマイアミFCに移籍。選手としてプレーした後は、選手兼任監督を務め[2]、2008年に現役を引退した。
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代表経歴
ブラジル代表としては55試合に出場し7得点を挙げた。1989年3月のエクアドル戦でフル代表デビューを果たした[1]。1994年のアメリカW杯では全7試合にスタメン出場し[13]、決勝のイタリア戦でも先発出場した[14]。大会を通じ、左サイドで本来のプレースタイルとは異なるプレーを求められたが、優勝に貢献した[15]。
パルメイラスでは好調を維持、1997年9月10日のエクアドル戦で代表に復帰、1998 CONCACAFゴールドカップでは 全5試合に先発出場したが[13]、同年のフランスW杯への出場は叶わなかった。
個人成績
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 55試合 7得点(1989年-1998年)[16]
脚注
関連項目
外部リンク
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