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ジエゴ・リバス・ダ・クーニャ
ブラジルのサッカー選手 ウィキペディアから
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ジエゴ・リバス・ダ・クーニャ(Diego Ribas da Cunha, 1985年2月28日 - )は、ブラジル・サンパウロ州リベイラン・プレト出身の元サッカー選手。元ブラジル代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
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クラブ経歴
要約
視点
サントス
サントスFCの下部組織出身。2002年に16歳でプロデビューすると、同年のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA優勝に貢献。1歳上のロビーニョやエラーノ、アレックスらと共に「ヤング・サントス」の一員として3シーズンに渡って活躍。「ジーコの後継者」としてヨーロッパのクラブからの注目を集める。
ポルト
2004年8月、FCバルセロナへ移籍したデコの後釜としてプリメイラ・リーガの名門FCポルトに移籍金700万ユーロで引き抜かれる[1]。同年冬にはトヨタカップ出場のため来日。決勝のオンセ・カルダス戦はPK戦までもつれ込み、第1キッカーのジエゴはゴールを決めたものの、直後に相手GKを侮辱したため退場処分を受けた(チームは優勝)[2]。2年目はコー・アドリアーンセ新監督との関係がうまくいかず出場機会を大きく減らし、移籍を決断する。
ブレーメン
2006年8月、ドイツ・ブンデスリーガのヴェルダー・ブレーメンに移籍金は推定約600万ユーロで入団。前シーズンまで所属していたジョアン・ミクーの後継者として期待された。1年目の2006-07シーズンはリーグ開幕からトルステン・フリンクスと共にチームの攻撃陣の中心を担い、ブレーメンを前半戦冬の王者(ヘルプスト・マイスター)に導き、シーズン終了後にはドイツ年間最優秀選手に選ばれた。翌2007-08シーズンも投票で3位に入った[3]。
3年目の2008-09シーズンはリーグ戦とカップ戦をあわせて20ゴールを決める活躍をみせ、UEFAカップ決勝進出に貢献したが、FCシャフタール・ドネツクに敗れた。同シーズンのDFBポカール決勝ではメスト・エジルの決勝点をアシストし、バイエル・レバークーゼンを破っての国内カップ制覇を果たした。
ユヴェントス
2009年5月、セリエAのユヴェントスFCに5年契約、移籍金2450万ユーロで入団[4]。しかし、イタリアのサッカーへの適応に苦しみ、ジュゼッペ・マロッタGMによってわずか1シーズンで構想外とされた。
ヴォルフスブルク
2010年8月26日、ドイツのVfLヴォルフスブルクへ移籍。移籍金は1550万ユーロで4年契約。2月のハノーファー96戦ではスティーブ・マクラーレン監督の指示に逆らってパトリック・ヘルメスの代わりにPKを蹴って失敗し、試合後にチームから出場停止を課された[5]。チームの成績不振により監督がフェリックス・マガトへ交代した後、残留争いの大一番であった5月14日のホッフェンハイム戦でベンチスタートなったことに激怒し無断で帰宅。チームはベンチメンバーが一人欠けた状態での戦いを強いられた[6]。この問題行動によりクラブとマガト監督は翌シーズンにジエゴを起用しないことを決めた[7]。
アトレティコ・マドリード
夏の移籍期間最終日である2011年8月31日にアトレティコ・マドリードへ1シーズンの期限付き移籍が決まった[8]。加入当初は批判も浴びたが、シーズン途中にディエゴ・シメオネ監督が就任するとトップ下を任され、ラダメル・ファルカオと共にヨーロッパリーグ制覇に貢献[9]。ジエゴ本人はシーズン終了後もアトレティコへ残ることを望み、アトレティコが買い取るとの噂が流れたが、結局実現しなかった。
ヴォルフスブルク復帰
2012年夏にヴォルフスブルク復帰。マガト監督との関係は依然として良好ではなかったが、新シーズンはヴォルフスブルクでプレーすることになった[10]。シーズン途中にマガト監督が解任されると、冬の移籍市場でサントスへの移籍を勧められていたことを暴露[11]。一方で、新監督の下ではミスを恐れずにプレーできるようになったとも述べた。
アトレティコ・マドリード復帰
2014年1月、1年半ぶりにアトレティコ・マドリードに加入した。
フェネルバフチェ
2014年7月11日、フェネルバフチェSKに加入した[12]。
フラメンゴ
2022年11月12日、現役引退を表明した[14]。
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代表経歴

2003年4月30日、メキシコ戦でブラジルA代表デビュー。2004年と2007年のコパ・アメリカの優勝メンバーになったほか、2008年の北京オリンピックでは銅メダルを獲得した。一方で、同じポジションのカカの存在もあり、W杯出場経験はない。
プレースタイル・人物
独創的なプレーを得意とする、いわゆるファンタジスタ[15]。FWの後ろに位置する司令塔としてラストパスを出すことを好む[16]。
「プリマドンナ」、「エゴ・ジエゴ」とあだ名されるように、チームの規律よりも個を主張する傾向が見られ、たびたびチームとの間にトラブルを起こしている[17]。
背番号10に愛着を持っているが、ユヴェントスでは10番はチームの顔でありキャプテンであるアレッサンドロ・デル・ピエロがつけていたため、28番を選択した。これは2+8=10であることと、自身の誕生日が2月28日であることに由来する[18]。なお、ブレーメンとヴォルフスブルクでは10番を背負っている。
父方の曾祖父がイタリア・エミリア=ロマーニャ州フェラーラ出身、曾祖母が同カンパニア州出身であったため、イタリアのパスポートも所持している[19]。
個人成績
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タイトル
クラブ
- サントスFC
- FCポルト
- ポルトガルスーパーカップ : 2004
- インターコンチネンタルカップ : 2004
- ポルトガルリーグ : 2005-06
- ヴェルダー・ブレーメン
- DFLリーガポカール : 2006
- DFBポカール : 2008-09
- アトレティコ・マドリード
- フェネルバフチェSK
- テュルキエ・スュペル・クパス : 2014
- フラメンゴ
- ブラジル全国選手権 : 2019, 2020
- コパ・ド・ブラジル : 2021
- スーペルコパ・ド・ブラジル : 2020, 2021
- コパ・リベルタドーレス : 2019, 2022
- カンピオナート・カリオカ : 2017, 2019, 2020, 2021
- レコパ・スダメリカーナ : 2020
代表
- ブラジル代表
個人
- ドイツ年間最優秀選手 : 2007
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脚注・出典
外部リンク
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