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ジャックス (バンド)

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ジャックスは、1960年代後半に活動した日本サイケデリック・ロックバンド。活動当時は一般的な人気を得ることもなかったが、解散後、日本のロックの先駆者として高い評価を受けるようになった。

概要 ジャックス, 別名 ...

活動の記録

  • 1965年夏 - 和光高校東京都町田市)の同級生、早川義夫、高橋末広、松原絵里の3人が「ナイチンゲイル」を結成。これがジャックスの前身にあたる。
  • 1965年秋 - 早川と高橋でオリジナル曲を制作。タイトルは「セブンティーン」「ふるさとの歌[1]」「なぐさめ」「神様と僕達」。
  • 1966年夏 - フジテレビのフォークソング合戦に「ウィンドミルズ」の名称で出場。松原絵里が脱退。バンド名は当初「ビート・ジャックス」の予定だったが、後にメンバーになる谷野の進言によりジャックスに変更[2]
  • 1967年1月 - 谷野ひとしが加入。
  • 1967年5月 - 高橋末広が脱退し、木田高介、6月に水橋春夫が加入。早川義夫(ボーカル)、水橋春夫(ギター)、谷野ひとし(ベース)、木田高介(ドラム)の4人による活動開始。
  • 1967年7月30日 - 第1回「ジャックス・ショウ」開催(新宿・日立ホール)。
  • 1967年9月24日 - ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国大会で2位に入賞。(CD化)。
  • 1968年2月3日 - 若松プロ映画「腹貸し女」音楽を録音(目黒スタジオ)。(CD化)。
  • 1968年3月 - シングル「からっぽの世界 / いい娘だね」でタクトレコードからデビュー。
  • 1968年5月21日 - ディレクター朝妻一郎と正式契約。
  • 1968年7月24日 - 第2回「ジャックス・ショウ」開催(東京・日仏会館)(CD化)。
  • 1968年9月1日 - 日比谷野音のイベント終了後、水橋春夫が脱退を申し入れる。
  • 1968年9月10日 - 1枚目のアルバム『ジャックスの世界』を発表。
  • 1968年11月 - 角田ひろ(ドラム)が加入。木田高介はドラムからサックスやフルート、ヴィブラフォンに替わる。
  • 1969年3月21日 - 第3回「ジャックス・ショウ」開催(大阪厚生年金会館中ホール)。(CD化)。
  • 1969年3月31日 - 第4回「ジャックス・ショウ」開催(東京厚生年金会館小ホール)。
  • 1969年6月15日 - 近畿放送(現KBS京都)『みんなで歌おうフォークフォーク』公開番組に出演。(CD化)。
  • 1969年7月25日 - 第5回「ジャックス・ショウ」のステージ上で解散を宣言。(CD化)。
  • 1969年8月10日 - 第1回全日本フォークジャンボリーの出演(午前4時ごろに登場)を最後にジャックスは解散。(CD化)。
  • 1969年10月10日 - 2枚目のアルバム『ジャックスの奇蹟』が発表される。
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ジャックスの音楽性

ジャックスの特徴は、若者の心の内面の悩みや葛藤を前衛的に表現する歌詞と、早川の情念的な歌唱、そして、木田のジャズを指向した音作りにある。

当時の音楽界では、商業的に大衆の嗜好に焦点を合わせがちなグループ・サウンズと、直截的な歌詞と演奏が主体であったフォークソングが若者の間に支持されており、一部のファンを除き、ジャックスが一般的な支持を受けることはなかった。のちに早川は解散の理由について、「率直に言って、解散の最大の理由は売れなかったこと。もう少し売れていれば解散しなかったと思う」と述べている。

一線を画した独自の精神性や思想性のある音楽活動は、むしろ演劇界におけるアンダーグラウンドアングラ演劇)に近いものがあった。

しかし、プログレッシブ・ロックを思わせるジャックスの楽曲と活動は、後にフォーク・クルセダーズはっぴいえんどと並んで、欧米の模倣ではない「日本のニューロック」に先鞭をつけたバンドとして再評価を受け、現在では高い評価を得ている。

なお、早川、高橋末広、谷野ひとし、また、作詞をした相沢靖子や柏倉秀美らは、彼らが在籍した和光高校の演劇の講師、平松仙吉が主宰する実験劇団、パルチ座の団員であった。

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再評価

要約
視点

再評価の機運は1970年代末頃、東京ロッカーズを中心とした第1次インディーズブームの際に、多くのバンドが影響を受けたバンドとして、ジャックスの名を挙げたことから始まる。特に、中心バンドの1つであったザ・スターリンのリーダーである遠藤ミチロウは強く影響を受けたことを何度も語っており、ジャックスの代表曲の1つであった「マリアンヌ」をパンク風にアレンジしてカバーしている(解散ライブ盤『FOR NEVER』に収録)。同じくインディーズシーンの雄であったAUTO-MODも「LOVE GENERATION」をライブのレパートリーに加えていた(この音源は1990年代に入ってからライブ盤として発売された。AUTO-MODの自作曲にも「LOVE GENERATION」という曲があることに注意)。インディーズシーンだけでなくメジャーフィールドでもダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドのライブ盤『海賊版:LIVE FIGHTING 80'S』にも「堕天使ロック」がカバー収録されており、ジャックスを知らない若い世代にその輪郭のみが伝えられた。

しかし、当時はレコードは全て廃盤となっていた上、発売枚数が少なかったため(つまり売れていなかった)、非常に高額のプレミア付きで取引されており、完全に幻のバンドとなっていた。版権を所有していた東芝音楽工業(以下東芝、現 ユニバーサル ミュージック合同会社)に対して再発を希望する声は多く届いていたが、代表曲である「からっぽの世界」の歌詞中に、当時音楽業界が自主規制用語としていた「(おし)」という単語が含まれていたため、決して再発されることはなかった。しかし、あまりの再発希望の多さに東芝も重い腰を上げ、1985年にベスト盤『Legend』を発売した。結局、問題となった「からっぽの世界」の収録は見送られたが、待望された幻のバンドのベスト盤ということでかなりの話題になり、売れ行きも好調だった。このことにより、『Echoes In The Radio』(東芝EMI)、『タクト・リコレクション』(日本コロムビア[注釈 1]、『リメインズ』(未発表曲集、のち『JACKS CD BOX』に収録)と様々な音源が発掘され発売された。しかし、「からっぽの世界」の含まれたオリジナル・アルバム『ジャックスの世界』や『ジャックスの奇蹟』は再発されなかった。

その後、『Echoes In The Radio』に使われたニッポン放送の「フォーク・ビレッジ」用に録音したスタジオライブ音源の権利が、東芝ではなくニッポン放送にあることを知ったインディーズのSolid Recordsが、『Echoes In The Radio』に使用されなかった音源の中から「からっぽの世界」を発売した(のち『JACKS CD BOX』に収録)。オリジナルとは別テイクで、さらにインディーズからの発売ではあったが、ようやく「からっぽの世界」が再び日の目を見ることとなった(ここまでの発売は全てアナログ盤)。さらに、Solid Recordsは東芝との交渉に成功し(限定盤にすることが条件だったといわれる)、当時発売可能と思われるジャックスの全ての音源を収録した『JACKS CD BOX』を1989年に発売した。実に解散より20年を経てその全貌を表したジャックスは、日本のロック史における、その地位を不動のものとした。

ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

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アルバム

オリジナル・アルバム

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ライブ・アルバム

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企画

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ベスト・アルバム

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関連項目

  • 休みの国 - ジャックスと親交の深かった高橋照幸のバンド。メンバーはイレギュラーで固定していない。オリジナルファースト『休みの国』およびセカンド『FYFAN』時のメンバーは高橋照幸と当時の早川義夫を除くジャックスのメンバーだった。谷野ひとしは、その後も参加を続け、一時期の休みの国は、実質、高橋照幸と谷野ひとしのユニットだったと言える。その後、谷野ひとしが海外移住したため、レギュラーとしての参加はなくなったが、客演という形では何度か参加している。また、1991年作『FREEGREEN』には谷野ひとしの楽曲が収録されている。
  • 遠藤賢司あがた森魚も、ジャックス・ファンクラブの会員だった[3]

脚注

関連文献

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