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ジョン・フェイン (第10代ウェストモーランド伯爵)
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第10代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェイン(英: John Fane, 10th Earl of Westmorland、1759年6月1日 - 1841年12月15日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官。
父がウェストモーランド伯爵となった1771年から自身が襲爵する1774年まではバーガーシュ卿の儀礼称号で称された。
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経歴
第9代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェインの長男[1][2][3]。ウェストミンスター・スクール、チャーターハウス・スクールを経てケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジで学び、1778年に修士号を取得[4]。ケンブリッジでは、後にクロイン主教となるウィリアム・ベネットが彼のチューターを務めたほか、ウィリアム・ピット(小ピット)と知己を得て終生の友人となった[2][3]。
1774年に父が死去し、第10代ウェストモーランド伯爵となる[1][5][3]。貴族院ではトーリー党に所属。
1789年1月、首相を務めていた小ピットによって第2代ウォルシンガム男爵トマス・ド・グレイとともに郵政大臣(Postmaster General; ロイヤルメール総裁)[6]に任じられた。同年10月には更迭された初代バッキンガム侯爵ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィルの後任のアイルランド総督(アイルランド統監)[7]となり、同時に枢密顧問官[7]に列せられた。彼はカトリック解放に反対していたため、カトリック勢力との妥協を図る小ピットによって1794年に解任された[2]。なお総督在職中の1793年にガーター勲章[8]を授けられている。
1795年から1798年まで小ピットの下で主馬頭(Master of the Horse)[1][4][2][5][3]となり、1798年に王璽尚書[9]として入閣した。以後彼は、ホイッグ党の初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルが政権の座にあった1806年から1807年にかけての短い期間を除き、5人の首相ののべ6内閣(第1次小ピット内閣・アディントン内閣・第2次小ピット内閣・第2次ポートランド内閣[10]・パーシヴァル内閣・リヴァプール内閣)で30年近くにわたって王璽尚書を務めた[2][3]。
1841年にイースト・サセックス州ブライトンで死去し、ノーサンプトンシャー州アペソープに葬られた[4]。
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家族
彼は生涯に二度結婚した。最初の妻は銀行家ロバート・チャイルドの一人娘であったサラ・アン・チャイルドで、1782年5月20日にスコットランドのダンフリーズシャー州グレトナ・グリーンで駆け落ち結婚した[1]。彼女はロバート・チャイルドの唯一の相続人で、後に遺産の大半は長女のサラ・ソフィア・フェインへ渡った[2]。サラとの間に以下の子供をもうけた。
- Burghersh卿ジョン・フェイン[11][12] (1784年 - 1859年) - 第11代ウェストモーランド伯爵、陸軍少将
- レディ・サラ・ソフィア・フェイン[11][12] (1785年 - 1867年) - 第5代ジャージー伯爵ジョージ・チャイルド=ヴィリアーズ夫人
- レディ・オーガスタ・フェイン[11][12] (1786年 - 1871年) - はじめ第2代ボーリンドン男爵ジョン・パーカー(後の初代モーリー伯爵)夫人、のちサー・アーサー・パジェット夫人
- レディ・マリア・フェイン[11][12] (1787年 - 1834年) - ダンカノン子爵ジョン・ポンソンビー(後の第4代ベスボロー伯爵)夫人
- 男子[12] (1789年)
- レディ・シャーロット・フェイン[12] (1793年 - 1822年)
サラと1793年11月9日に死別したのち、1800年3月24日に彼は医学博士リチャード・ハック=ソーンダースの娘であるジェイン・ソーンダースと結婚した[1][3]。ジェインとの間に以下の子供をもうけた。
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出典
外部リンク
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