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ジョン・ロード

イギリスの音楽家 ウィキペディアから

ジョン・ロード
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ジョン・ロード英語: Jon Lord1941年6月9日 - 2012年7月16日[1])は、イングランド出身のハモンドオルガニストピアニスト作曲家

概要 ジョン・ロード, 基本情報 ...
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略歴

要約
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生い立ち

レスターで生まれる。本名ジョナサン・ダグラス・ロード。

父親はサクソフォーン奏者であったので、音楽的な環境に恵まれており[2]、9歳の頃からピアノのレッスンを受け始める。最初はクラシックピアニストを目指していたが、演劇にも興味を持っていて演劇学校にも通っていた[3]。ある日、ジミー・スミスが奏でるハモンドオルガンのサウンドを偶然耳にして、その魅力にはまった。

アマチュア・バンドに加入してキーボードを担当するが、あまり仕事には恵まれなかった。

黎明期

1964年アート・ウッド率いる本格的なR&Bバンドのジ・アートウッズ(The Artwoods[注釈 1]に加入[4]。8作のシングルとアルバム『Art Gallery』[5]の制作に携わったのち、1967年に脱退[6]

同年、サンタ・バーバラ・マシン・ヘッド(Santa Barbara Machine Head[7][注釈 2]を結成。彼等はオムニバス・アルバム『ブルース・エニタイム』に3曲のインストゥルメンタルを提供する[8]が、同年解散した。ボーカル・グループのザ・フラワー・ポット・メンのバック・バンドに参加[9]

1967年末、元サーチャーズクリス・カーティスの新しいバンドであるラウンドアバウト(Roundabout)の2人目のメンバーになった。カーティスは次にギタリストのリッチー・ブラックモアを迎えた[10]後に失踪したので、ロードはブラックモアと2人でメンバーを探し続けた。ラウンドアバウトは1968年2月頃までに5人組になり[11]、同年4月20日にデンマークの学校のホールで初のライヴを行なった[12]

ディープ・パープル

1968年5月、ラウンドアバウトはディープ・パープルと改名した[12]

ディープ・パープル[注釈 3]1976年3月に第4期を以って解散する[13]まで、ロードはオリジナル・メンバーで最年長者としてバンドをまとめた。

ディープ・パープル在籍中のソロ活動

1971年10月、初のソロ・アルバム『ジェミニ組曲』をパープル・レコードの第一弾アルバムとして発表した[14]。ロード、アルバート・リー(ギター)、ロジャー・グローヴァー(ベース・ギター)、イアン・ペイス(ドラムス)、トニー・アシュトン(ヴォーカル)、イヴォンヌ・エリマン(ヴォーカル)が独奏者もしくは独唱者として、マルコム・アーノルドが指揮するロンドン交響楽団と共演した[注釈 4]

1974年7月26日、2作目のソロ・アルバム『バッハ未完成フーガ』を発表[15]。このアルバムは同年6月1日にミュンヘンで開かれた[16]、作曲家エバハルト・シェーナーが指揮するThe Orchestra of the Munich Chamber Operaとの共演コンサートのライブ録音。ピート・ヨーク(ドラムス)、アシュトン(ヴーカル、キーボード)、レイ・フェンウィック(ギター)、デイヴィッド・カヴァデール(ヴォーカル)、グレン・ヒューズ(ベース・ギター、ヴォーカル)が客演した。

1974年8月、アシュトンとの共作アルバム『ファースト・オブ・ザ・ビッグ・バンズ』を発表[17]

ペイス・アシュトン・ロード

1976年8月にペイス(ドラムス)、アシュトン(ヴォーカル、キーボード)、バーニー・マースデン(ギター)、ポール・マルチネス(ベース・ギター)とペイス・アシュトン・ロードを結成[18]

彼等は1977年3月にデビュー・アルバム『不思議な国のマリス』[19][注釈 5]を発表[20]して、月末に国内ツアーとしてバーミンガムニューカッスル・アポン・タインリヴァプールグラスゴーロンドンで計5回のコンサート活動を行なった[21][注釈 6]が、1978年5月に解散した[22]

ホワイトスネイク

1978年デイヴィッド・カヴァデール率いるホワイトスネイクに参加[23]

ディープ・パープル

Thumb
左ロード、右トニー・アシュトン(1990年)

1984年、第2期ディープ・パープルのメンバーによる再結成に参加。

ツアーの疲労が蓄積してきた2001年に膝を痛めたので、2002年に引退の形で脱退。

ソロ活動

Thumb
ロード(2005年)。

膝が手術を経ずに回復したので、引退を撤回してソロ活動に専念。

2004年、元ABBAアンニ=フリッド・リングスタッドと「The Sun Will Shine Again」を制作して、アルバム『ビヨンド・ザ・ノーツ』に収録。

2009年4月15日、東京国際フォーラムでのディープ・パープルのコンサートにサプライズ・ゲストとして参加。同年、アルバム『ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』(1969年)の40周年記念として、アイルランドのRTÉ Concert Orchestraとダブリンで共演して、「グループとオーケストラのための協奏曲」[24]を再演した。その後も、2011年までの間、数回にわたって様々なオーケストラと共演して再演した。

2011年、膵臓癌と闘病中であることを公表。英国とイスラエルで治療を受けた[25]。同年、ポール・マンとロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団が行なった「グループとオーケストラのための協奏曲」のスタジオ録音版[24]の制作に病魔を押して参加した。

2012年7月16日、肺塞栓症のためにロンドンのクリニックで死去[26][1]71歳没

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使用楽器・機材

  • ハモンドオルガン
ハモンドオルガンは、ロードの代表的な使用楽器として知られている。C-3に筐体の上下分割ほかの改造を施した上でマーシャルのアンプに接続し、彼が特許をとった物がいくつか存在する[27]。当時彼がメインで使用していたハモンドオルガンは、フリートウッド・マッククリスティン・マクヴィーから譲り受けたものである[28][29]。演奏に関してはグレアム・ボンドから大きな影響を受けており「ハモンドオルガンに関して実践的なことは、ほとんどすべて彼から学んだ」と語っている。
  • その他の鍵盤楽器
ローズ・ピアノクラビネットメモリーモーグなど。
  • アンプ
ディープ・パープルの第1期ではレスリー・スピーカーを使用したが、第2期ではマーシャルのPAスピーカー・キャビネットを使用して、歪んだ音色を演出した。

ディスコグラフィ

リーダー・アルバム

共作アルバム

トニー・アシュトン

サウンドトラック・アルバム

ディープ・パープル

ペイス、アシュトン、ロード

  • 『不思議な国のマリス』 - Malice in Wonderland[19] (1977年)
  • 『BBCラジオ・ワン・ライヴ』 - BBC Radio 1 Live in Concert[36] / Live 1977 (1992年)

ホワイトスネイク

ザ・フーチー・クーチー・メン

  • 『ライブ・アット・ザ・ベースメント』 - Live at the Basement[37] (2003年)
  • 『デンジャー・ホワイト・メン・ダンシング』 - Danger. White Men Dancing[38] (2007年)

参加アルバム

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脚注

関連項目

外部リンク

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