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ジョージ・ニュージェント (初代ウェストミーズ侯爵)

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ジョージ・ニュージェント (初代ウェストミーズ侯爵)
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初代ウェストミーズ侯爵ジョージ・トマス・ジョン・ニュージェント英語: George Thomas John Nugent, 1st Marquess of Westmeath1785年7月17日1871年5月5日)は、アイルランド貴族。1831年から1871年までアイルランド貴族代表議員を務めた[1]。1792年から1814年までデルヴィン卿儀礼称号を使用した[2]

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ギルバート・ステュアートによる肖像画、1789年/1790年画。

生涯

第7代ウェストミーズ伯爵ジョージ・フレデリック・ニュージェント英語版と1人目の妻マリアン(Maryanne、旧姓ジェフリーズ(Jeffreyes)、ジェームズ・セント・ジョン・ジェフリーズ英語版アラベラ・ジェフリーズ英語版の娘)の息子として、1785年7月17日にウェストミーズ県クロニン(Clonyn)で生まれた[1][2]。1796年よりイートン・カレッジで教育を受けた後、1797年にラグビー校に転じた[2]

1800年3月11日、コールドストリームガーズエンサイン英語版(歩兵少尉)に任命された[3]サー・ラルフ・アバークロンビーの部下としてエジプト遠征に参戦した後、1803年9月に中尉および大尉(lieutenant and captain)に昇進[4][5]、1805年7月9日に第88歩兵連隊英語版の大尉に昇進した[6]。同年12月ごろに第36歩兵連隊英語版に転じて半給になり[7]、1808年8月2日に第3歩兵連隊英語版の大尉として復帰した[8]。1810年8月に半給に転じた[9]

1806年1月8日、初代ネルソン子爵ホレイショ・ネルソンの葬儀に出席した[10]

1814年12月30日に父が死去すると、ウェストミーズ伯爵位を継承した[2]

1822年1月12日、アイルランド貴族であるウェストミーズ侯爵に叙された[2][11]

1831年にアイルランド貴族代表議員に選出され、1871年に死去するまで務めた[2]。1831年10月7日にウェストミーズ統監に任命され、1871年4月3日までに辞任した[12]。ほかにもウェストミーズ民兵隊隊長を務め、1850年8月に辞任した[13]貴族院では第1回選挙法改正の第2次法案(1831年10月)に賛成票を投じたが[14]、選挙法改正以外では保守党寄りであり、1869年アイルランド教会法英語版アイルランド国教会の廃止法)などの親カトリック政策に常に強く反対した[4]

1871年5月5日に死去、ウェストミーズ侯爵位は廃絶、ウェストミーズ伯爵位は遠戚のアンソニー・フランシス・ニュージェント英語版が継承した[2]

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家族

1812年5月29日、エミリー・アン・ベネット・エリザベス・セシル英語版(1789年7月14日 – 1858年1月21日、初代ソールズベリー侯爵ジェームズ・セシルと妻エミリーの娘)と結婚[2]、1男1女をもうけた[4]。ウェストミーズ伯爵家は裕福なソールズベリー侯爵家と比べて貧しく、エミリーはたちまちクロニンを嫌い、娘が生まれた頃には短気な夫にも嫌気が生じ、ついには別居した[4]。2人は一旦は和解して、1818年に息子をもうけたが、1819年7月20日以降は再び別居した[4]。ウェストミーズ伯爵は2人の婚姻を救おうとしたが、エミリーの友人である初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーをエミリーの不倫相手と勘違いして決闘に挑むなどの波乱を経て、ついにエミリーが1825年に離婚裁判を起こすに至った[4]

  • ローザ・エミリー・メアリー・アン(Rosa Emily Mary Anne、1814年5月[15] – 1883年1月17日) - 1840年4月28日、フルク・グレヴィル英語版(1883年1月25日没、のちの初代グレヴィル男爵)と結婚、子供あり[16]
  • ウィリアム・ヘンリー・ウェリントン・ブリッジス(William Henry Wellington Brydges、1818年11月24日 – 1819年11月16日) - 夭折[2]

ウェストミーズ侯爵はデルヴィン卿時代の1804年にアーヴィン氏(Mrs Irwin)という愛人をかかえて子供を1人をもうけており、結婚した後も関係を保ち続け、子供をさらに1人もうけていた[4]。エミリーは離婚裁判でウェストミーズ侯爵が1815年から1823年までの間に5人の女性と関係を持ったと主張して証拠を提出した[4]。離婚裁判が1834年まで長引いたため、侯爵は裁判に3万ポンドも費やすことになった(一方で侯爵の領地は1820年代時点で年収5,000ポンド相当だった[4])。その後、ウェストミーズ侯爵は1840年代にフランス人女性と関係を築き、息子ジョージ(1843年/1844年 – 1852年7月)をもうけた[4]

1858年2月18日にマリア・ジャーヴィス(Maria Jarvis)と再婚したが、侯爵の申請により1862年に離婚した[2][16]

1864年7月12日、エリザベス・シャーロット・ヴァーナー(Elizabeth Charlotte Verner、1892年9月18日没、デイヴィッド・ヴァーナーの娘)と再婚したが[2]、2人の間に子供はいなかった[16]

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出典

外部リンク

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