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タデウシュ・カントル

ポーランドの舞台芸術家 ウィキペディアから

タデウシュ・カントル
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タデウシュ・カントル (Tadeusz Kantor, 1915年4月6日 - 1990年12月8日) は、ポーランドの画家、アッサンブラージュ作家、ハプニング芸術家、舞台装置デザイナー、および演出家である。カントルはポーランド内外で、革命的劇場公演で知られている。スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェーヴィチ賞を1989年受賞ポーランド語版した。

概要 タデウシュ・カントルTadeusz Kantor, 生誕 ...
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生涯と活動

要約
視点

カントルはマリアン・カントル=ミルスキとヘレナ・ベルガーの間に生まれた。父はユダヤ教徒で、母はカトリック教徒だった[1]。「カントル」はイディッシュ語で、合唱隊長の意味である[1]。母親はドイツ人の父を通じて、作曲家で指揮者のクシシュトフ・ペンデレツキと親戚だった。カントルはガリツィア地方(当時オーストリア=ハンガリー領、現在はポーランド)のヴィエロポール・スクシンスキエドイツ語版村に生まれ[2]、1934年にクラクフ芸術アカデミーに入学し、1939年に卒業した[2]ナチス・ドイツによるポーランド占領期に、彼は地下劇場を創設し、1942年から1944年まで実験劇場の監督を務めた[2]。戦争後、彼はバーナード・ショーの『聖女ジョウン英語版』(1956年)[2]シェークスピアの『尺には尺を』(1956年)のデザインを含む前衛的な舞台美術で有名になった。標準的劇場との違いを示す例は、舞台を客席へ広げたり、俳優としてマネキン人形を使うことだった。

1955年、制度化されつつある前衛に幻滅した芸術家たちと共に、カントルは新しい演劇団クリコット2英語版を創設した[2]。クリコット2はポーランド内外の数多くの劇場で、ハプニングの舞台で高く評価された。彼の興味は主に不条理主義とポーランドの劇作家スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェーヴィチ(「ヴィトカツィ」としても知られる)にあった。ヴィトカツィの戯曲『イカ』(1956年)と『水鶏』(1969年)の上演は、当時の彼の最高傑作といわれた。『水鶏』の1972年の上演は、「エディンバラ・フェスティバルにおいて、最も少ない宣伝で最も評判になったイベント」と評された[3]

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Tadeusz Kantor, commemorative bust by Kornel Arciszewski
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Tadeusz Kantor, Kantor's chair, concrete sculpture, height 14 m. Hucisko, Poland

『死んだ教室』(1975年)は1970年代の劇作品で最も有名である[4][5]。1977年にはアンジェイ・ワイダ監督によりテレビ映画が作られた[6]。その劇の中で、カントル自身が先生役で主演し、一見死人に見える登場人物のクラスを主導し、若いころを表わすマネキン人形と対峙した。

1980年代後半の彼の作品は、とても個人的な考察である。『死んだ教室』の時のように、彼はしばしば自分で舞台に立った。1990年代に、彼の作品はエレン・スチュワート英語版ラ・ママ実験劇場英語版で公演したことで、アメリカ合衆国で有名になった。

彼の生涯を通じ、カントルはユダヤ文化英語版に興味を持ち、ユニークな関係を持っていた。名ばかりのカトリック教徒であったカントルは、「ユダヤ演劇英語版」として知られる要素を自作に取り入れた。

カントルはクラクフで亡くなった。

タデウシュ・カントルの芸術ドキュメントの新しいセンターであるクリコテカポーランド語版が、2014年クラクフにオープンした。

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主な宣言と著作

  • The Autonomous Theatre (1963)
  • Theatre Happening: The Theatre of Events (1967)
  • The Informel Theatre (1961)
  • The Zero Theatre (1963)
  • The Theatre of Death (1975)

クリコット2との作品

  • The Cuttlefish (1956)(イカ)
  • The Country House (1961)
  • The Madman and the Nun (1963)
  • The Water Hen (1965)(水鶏)
  • Dainty Shapes and Hairy Apes, or the Green Pill (1972)
  • The Dead Class (1975)(死んだ教室)[2]
  • Wielopole, Wielopole (1981)(ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ)[1]
  • Let the Artists Die (1985)(芸術家よ、くたばれ!)[2]
  • Macchina dell'amore e della morte (1987)
  • I Shall Never Return (1989)(私は決して戻らない)[2]
  • Today is my Birthday (1990)

来日

カントルは1982年と1990年に来日している[1]。1982年は利賀フェスティバルで『死んだ教室』を上演、1990年には『私は決して戻らない』、『芸術家よ、くたばれ』をパルコ劇場で上演した[2]

没後の1994年にはセゾン美術館伊丹市立美術館[7]、2016年には京都市立芸術大学ギャラリーで回顧展が開催されている[8]

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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