トップQs
タイムライン
チャット
視点

トマス・サマセット (初代サマセット子爵)

ウィキペディアから

トマス・サマセット (初代サマセット子爵)
Remove ads

初代サマセット子爵トマス・サマセット英語: Thomas Somerset, 1st Viscount Somerset KB1579年ごろ – 1644年1651年の間)は、イングランド王国の廷臣、政治家、アイルランド貴族イングランド庶民院議員(在任:1601年 – 1611年)を務めた[1]

Thumb
18世紀(1800年)に描かれたサマセット子爵の肖像画。エドワード・ハーディングウェールズ語版画。

生涯

要約
視点

第4代ウスター伯爵エドワード・サマセットと妻エリザベス英語版(旧姓ヘースティングズ、第2代ハンティンドン伯爵フランシス・ヘースティングズ英語版の娘)の三男として、1579年ごろに生まれた[2]。1593年7月6日、オックスフォード大学モードリン・カレッジに入学した[3]。1604年、グレイ法曹院に入学した[3]

1601年10月、モンマスシャー選挙区英語版イングランド庶民院議員に当選した[4]。モンマスシャーではサマセット家、ハーバート家、モーガン家が有力であり、1601年の選挙ではトマスがサマセット家の候補者として当選し、2議席目はモーガン家のヘンリー・モーガン英語版が当選した[4]。議会の記録でみられる活動は少なかったものの、1603年3月にイングランド枢密院によりエディンバラに派遣され、エリザベス1世の死去をスコットランド王ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世に即位した)に対し公式に告知し、4月にはエリザベス1世の葬儀に出席した[5]

この任務によりジェームズ1世の知遇を得て、1603年に王妃アン・オブ・デンマーク主馬頭英語版に任命され、1619年まで務めた[1]。また、1605年1月5日にバス騎士団団員に選出された[2]。このように宮廷で優遇されたため、同時代に流行した仮面劇ではベン・ジョンソンの『ハイメンの仮面劇英語版』(1606年)、『ヘンリー皇太子の矢来英語版』(1610年)、『馬上槍試合の挑戦』(A Challenge at Tilt、1615年)に出演し、また宮廷で開催された馬上槍試合のほとんどに関わった[1]。ウェールズ公ヘンリー・フレデリックとも親しかったが、ウェールズ公が1612年に早世したため、実利を得ることはなかった[1]

議会では1604年2月にモンマスシャーで再選[6]、ジェームズ1世のイングランド・スコットランド合同構想に賛成したが、庶民院議員としての活躍は少なかった[1]

1610年7月/8月に出国して、ユーリヒ包囲戦英語版中のイングランド軍に加入した後、9月までにネーデルラントに滞在した[1]パリにも立ち寄った後、ジュネーヴに向かい、ジュネーヴとサヴォイア公国の関係悪化を本国に報告したのち、1611年10月ごろに帰国した[1]

宗教では父と同じく隠れカトリックとされており、『英国議会史』では宗教を1604年以降の選挙に立候補しなかった理由の1つと推測しているが、一方でユーリヒでイングランド軍についてカトリック連盟と戦ったため、父と同じく、自身の宗教のために政治生涯を犠牲にしなかったと評した[1]。1623年以降は政治への関わりを減らしたという[1]

1626年12月8日、アイルランド貴族であるティペラリー県におけるケッシェルのサマセット子爵に叙された[2]

1640年11月に出国してローマに向かい、以降イングランド内戦中は帰国せず、ローマに滞在した[1]。『英国議会史英語版』によれば、1644年10月にローマのイギリス学院英語版を訪れた記録があり、領地管理の記録で1651年2月までに死去したことがわかるものの、確実な死去日は不明だという[1]。いずれにしても、息子をもうけなかったため、死去に伴い爵位が廃絶した[2]。遺産は娘エリザベスが継承、1655年にエリザベスが死去した後はサマセット子爵の兄ヘンリーの子孫(ウスター侯爵家、のちのボーフォート公爵家)が継承した[1]

Remove ads

家族

1616年8月15日、エレン・バトラー(Ellen Butler、1642年没、第5代バッティヴァント子爵デイヴィッド・ド・バリー英語版の娘、第10代オーモンド伯爵トマス・バトラー英語版の未亡人)と結婚、1女をもうけた[1]

  • エリザベス(1655年没) - 生涯未婚[1]

出典

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads