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ネルソン・バプティスタ・ジュニオール

ブラジルのサッカー選手、監督 ウィキペディアから

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ネルシーニョ・バプティスタ(Nelsinho Baptistaまたは Nelsinho Batista)[1][2][3][4][5][6][7] ことネルソン・バプティスタ・ジュニオール(Nélson Baptista Júnior、1950年7月22日 - )は、ブラジルサンパウロ州カンピナス出身の元プロサッカー選手サッカー指導者。プレーヤー時代はネルソンとして知られ、ネルシーニョの愛称は監督生活を始めてからのものである[8]

概要 ネルシーニョ・バプティスタ, 名前 ...
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経歴

要約
視点

選手時代

1967年AAポンチ・プレッタでプロ生活を開始。現役時代のポジションは右サイドバック[8]。テクニックが特に優れているプレーヤーではなかったが、賢さでプレーするタイプで[8]、攻撃に参加してアシストや得点を奪うDFがほとんどいなかった当時[8]、現在のサイドバックの先駆者とも言えるプレーでサポーターから愛された[8]1971年から所属したサンパウロFCでは262試合に出場し6ゴールを決め、1975年サンパウロ州選手権で優勝、初のビッグタイトルを手にした[8]。ここではタッササンパウロのコリンチャンス戦でPKキッカーとして3度PKを失敗(主審が相手GKが動いたとして2度やり直し、全てポストに当ててしまい、全て失敗した[8])したこともあった[8]。その後、サントスFCでプレー、州選手権で優勝を果たした後、CAジュベントスでは2部リーグ優勝を果たし[8]、現役生活を終えた。

指導者時代

現役引退後は指導者に転身し、古巣のポンチ・プレッタ、サンパウロFCをはじめ、CRフラメンゴクルゼイロECSEパルメイラスSCコリンチャンス・パウリスタなどのクラブを率いた。1988年、パラナ選手権で優勝し、監督としての初タイトルを獲得した[8]。コリンチャンスでは1990年ブラジル全国選手権ではテレサンターナ監督が率いたサンパウロを破り優勝[8]、この手腕から高額でパルメイラスに引き抜かれた[8]1997年サンパウロ州選手権で優勝、サンパウロFCでも1998年にサンパウロ州選手権優勝を果たした。

1994年7月に初来日し、ヴェルディ川崎のヘッドコーチに就任する。ヴェルディは前年から松木安太郎が監督を務めていたが、ヘッドコーチ就任後のNICOSシリーズでは実質的に指揮を執る事になる。松木退任後の1995年に監督に就任すると、序盤は苦戦するもNICOSシリーズは優れた手腕でチームを優勝に導き[8]、この実績が評価され、1995年11月には次期日本代表監督就任が内定していたが[9][10][11][12]長沼健日本サッカー協会 (JFA) 会長(当時)の"鶴の一声"により[9][10][11][12]加茂周(当時)の監督続投が決定[9][10][11][12]。これに対して、ネルシーニョはJFAを「腐ったミカン」と批判した[9][10][11][12][13][注 1]。この騒動の後、ヴェルディ川崎の監督を辞任[9]

その後はブラジルに帰国し複数のクラブの指揮を執った後、2003年より名古屋グランパスエイトの監督に就任したが、成績不振により2005年9月に解任。

2007年途中から率いたスポルチ・レシフェではペルナンブーコ州選手権 を連覇し同クラブ初のメジャータイトルであるコパ・ド・ブラジルも制した。

2009年7月から柏レイソルの監督に就任[14]。2010年にはJ2で優勝。2011年にJ1優勝へ導いた[15][16](昇格1年目の優勝はJ史上初)。2012年6月30日、ガンバ大阪戦で勝利し、Jリーグ外国人監督最多となる101勝目を挙げた。

2013年8月31日鹿島戦終了後、柏の監督を辞任するとコメントしたが、9月5日にこれを撤回して指揮を執ることになった。

2014年9月17日記者会見を行い、契約を2014年限りとすることを発表した[17]。最終的に2012年以降で最高順位の4位で終わった。

2014年12月12日、2015年からヴィッセル神戸の監督に就任することが発表された[18]。2016年のセカンドステージでは、チーム最高の2位に導いた。2017年8月16日付で成績不振を理由に監督を解任された[19]

2017年12月12日、ブラジルセリエAスポルチ・レシフェの監督に就任。しかし2018年4月24日のボタフォゴ戦後にクラブに無断で会見を開き監督を辞任した[20]

2019年より5年ぶりに柏の監督に就任すると発表された[21]。同シーズンはチームを二度目となるJ2リーグ優勝・J1リーグ昇格へ導き、JリーグアウォーズにおいてJ2優勝監督賞が贈られた[22]

2020年シーズンは、開幕戦で勝利したもののコロナ禍の影響もあって7位に終わった。また、ルヴァンカップは決勝まで進んだがFC東京に敗北し準優勝に終わった。

2021年シーズンは、オルンガの移籍・コロナ禍での新外国人選手の合流の遅れ・江坂任呉屋大翔ペドロ・ハウルらのシーズン途中での移籍などもあり、チームを上手くまとめられずにシーズン序盤からJ2降格危機に瀕したが、監督としてJ1通算200勝を達成したセレッソ大阪戦で辛くもJ1残留を確定させた。

2022年シーズンは、序盤には一時的に首位に立つなど下馬評を覆すような勢いを見せ、多くのサポーターを沸かせたがシーズン後半に入ると主力選手の離脱などもありペースが落ち、最終的にはリーグ7位になり10試合勝利無しという状況でシーズンを終えた。

2023年シーズンは、開幕6試合勝利なしと序盤から低迷。昨シーズン後半からのリーグ戦未勝利記録は16試合まで伸びた。第7節の鹿島アントラーズ戦でようやくシーズン初勝利をあげたものの、その後も不安定な戦いが続き下位から抜け出せずにいた。そして第13節横浜FC戦に敗戦したことが決め手となり[23]、5月17日に双方合意のもとで退任することが正式に発表された[24]

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タイトル

指導者時代

チーム

アトレチコ・パラナエンセ
コリンチャンス
ヴェルディ川崎
サンパウロ
ゴイアス
スポルチ
柏レイソル

個人

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脚注

関連項目

外部リンク

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