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ノストラダムスの予言
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『ノストラダムスの予言』(ノストラダムスのよげん、Vaticinia Nostradami)、正確には『息子セザールに宛てた未来のキリストの代理者に関するミシェル・ノストラダムスの予言』(むすこセザールにあてたみらいのキリストのだいりしゃにかんするミシェル・ノストラダムスのよげん、Vaticinia Michaelis Nostradami de Futuri Christi Vicarii ad Cesarem Filium)は、16世紀の占星術師ノストラダムスが書き残したとされる古写本の一種で、約80枚の水彩画がまとめられている。1982年にイタリア人ジャーナリストエンツァ・マッサ(Enza Massa)とロベルト・ピノッティ(Roberto Pinotti)がローマの国立中央図書館で発見した。蔵書番号は、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ文庫307番」(Fondo Vittorio Emanuele 307)である。
ノストラダムスの名を冠してはいるが、実際には13世紀から15世紀にかけて成立した『全ての教皇に関する預言』(以下、『教皇図』)の変種にすぎない[1]。ノストラダムスの作と見なしうる根拠に乏しく、実証的な立場の研究者からは相手にされていない[2]。
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来歴
要約
視点
カルトゥジオ修道会の図書館員による写本の後書きに拠れば、この写本はベロアルドゥスという修道士が、枢機卿マッフェオ・バルベリーニ(後の教皇ウルバヌス8世、在位1623年 - 1644年)に献上したものである。添え書きは更に、絵画群がフランスの占星術師ノストラダムスの手になるもので、息子のセザールによって献上品としてローマに持ち込まれたことを仄めかしている。
しかし、ノストラダムス自身が画家であったとか、この作品の書き手であった事を示す同時代の証言は一切確認されていない[2]。実際、未来に現れる歴代教皇を絵画で表すとしたその主題は、彼の時代よりも遥かに前に存在していた『教皇図』を焼き直しているにすぎない。ノストラダムスが『教皇図』を評価していたことを示す史料も存在しない。確かに、ノストラダムスが参照していた可能性が高いとされる『ミラビリス・リベル』第6・7章は、『教皇図』の再録であった。しかし、そこでは挿絵に添えられていた説明文のみが再録されているに過ぎず、絵画は一切収録されていなかった。
また、1629年と記載のある後書きや添え書きは、その内容からすれば実際には1689年以前に遡ることはできない。
ノストラダムス自身やその周辺の断片的な言及によって、彼の失われた作品を想定する実証的な論者はいる。例えば、秘書シャヴィニーの証言をもとに『宗教戦争期のプロヴァンス史』の草稿が存在した可能性を推測したエドガール・ルロワ[3]、ノストラダムス自身が『予言集』の解釈書を執筆していた可能性を示唆していたピエール・ブランダムールなどである[4]。しかし、彼らですら、ノストラダムスの手になる『教皇図』の模写の存在などには一切言及していなかった。ノストラダムスの往復書簡を復刻し、考察を加えたパリ第10大学教授[5]のジャン・デュペーブにしてもそうである。
信奉者の側には、ノストラダムスは指示を出しただけで、実際の描き手は画家でもあった息子のセザールとする説もある[6]。しかし、セザールによって、ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスクに送られた手紙も現存しており、そこでは画家でもあったセザール自身のミニアチュール作品についてであるとか、国王ルイ13世に献上する予定の小冊子のことなどが語られているが、『教皇図』との関連を窺わせるようないかなる言及も見出しえない[7]。セザールの手紙は、写しも含めてほかにもいくつも伝わっており、中にはセザール自身や兄弟の生没年を特定する上で大きく貢献した書簡などもあるが、いずれでも、この水彩画集には触れられていない。ほかに、ノストラダムスの知人ライオネル・リモセンという人物が描いたという説もあるが、そのような人物は、実証的な伝記研究ではまったく言及されていない[2]。
にもかかわらず、イタリア人の信奉者オッターヴィオ・チェーザレ・ラモッティは、ヒストリー・チャンネルの番組「ノストラダムスの失われた書」(The Lost Book of Nostradamus, 2007年10月放送)と組んで、この写本がノストラダムスに起源を持つ可能性について論じた。日本でもオカルト関係の雑誌やペーパーバックで、ノストラダムス自身の予言であるとして紹介しているケースがまま見られる[8]。
なお、この水彩画集と2012年人類滅亡説を結びつけて、「ノストラダムスも2012年人類滅亡を予言していた」と論じる者もいるが、その解釈は支離滅裂であるとの評価もある[9]。
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起源
要約
視点
この作品の起源は、明らかに13世紀から15世紀に作成された『教皇図』であり、同じようなデザインが多く含まれる(鏡写しになったものも含む)[10]。そこに含まれていないデザインも複数存在しているが、同時代に流行っていたエンブレム・ブックの類から借用されたのではないかと推測する者もいる[10]。
対応の例
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脚注
参考文献
関連項目
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