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ビル・ウォルトン
アメリカのバスケットボール選手 (1952 - ) ウィキペディアから
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ウィリアム・セオドア・ウォルトン3世(William Theodore Walton III, 1952年11月5日 - 2024年5月27日)はアメリカ合衆国カリフォルニア州ラ・メサ出身の元プロバスケットボール選手。NBAのポートランド・トレイルブレイザーズ、ボストン・セルティックスなど3チームに所属した。身長211cm、体重95kg。ポジションはセンター。1993年にバスケットボール殿堂入りを果たした[1]。また自身の子息はロサンゼルス・レイカーズ、サクラメント・キングスなどでヘッドコーチを務め、現在はクリーブランド・キャバリアーズのアシスタントコーチを務めるルーク・ウォルトンである。
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経歴
大学時代は名将ジョン・ウッデンの下、UCLAを2度の全米制覇に導き、3年連続で最優秀選手に選ばれるなどスター選手として活躍した。大学卒業後、1974年のNBAドラフトで1位指名をポートランド・トレイルブレイザーズから受けNBA入りした。 ブレイザーズでは年々成績を伸ばし、3年目の1976-77シーズンには、平均18.6得点、14.4リバウンド、3.8アシスト、1.0スティール、3.2ブロックを記録し、リバウンド王に輝いた。また、オールスター、オールNBA2ndチーム、オールディフェンシブ1stチームにも選ばれた。プレーオフではカリーム・アブドゥル=ジャバーのいたレイカーズを4-0で破り、NBAファイナルへ進出。フィラデルフィア・76ersにも4-2で競り勝ち、ファイナルMVPに選ばれた。 翌1977-78シーズンも、得点とアシストで自己最高を記録するなど活躍し、オールスター、オールNBA2ndチーム、オールディフェンシブ1stチームに加え、シーズンMVPも受賞した。プレーオフでは怪我により2試合しか出場できず、シアトル・スーパーソニックスに2-4で敗れた。
その後のウォルトンは怪我により調子を落とすようになり、サンディエゴ・クリッパーズ(現在のロサンゼルス・クリッパーズ)を経て、1985年9月に、ボストン・セルティックスへ移籍した。1985-86シーズンは自己最多の80試合に出場、シックスマンとしてチームを支え、シックスマン賞を獲得した。プレーオフではNBAファイナルに進出し、ヒューストン・ロケッツを破り優勝した[2]。 翌86-87シーズンは、怪我で10試合の出場に留まり平均得点は2.8得点まで落ち込んだ。プレーオフではチームはファイナルに進出したが、ロサンゼルス・レイカーズに惜敗した。
現役引退後は解説者として活躍し、日本のバスケ雑誌ダンクシュートでも短期間ではあるが自らのコーナーを持っていたため、日本での知名度も高い。
1993年にバスケットボール殿堂入りを果たし、1996年には、NBA50周年を記念した「50人の偉大な選手」の1人に選ばれた。彼はその怪我の多さから現役時代「メディカル・ビル(医療費請求書=ファーストネームの「ビル」とかけている)」の異名を頂戴し、出場468試合と殿堂入り選手の中でもっとも出場試合が少なく、シーズン全休が多いことでも有名(公式に引退を表明した87-88シーズンを含めると全休4回)である(殿堂入りが決定した時点)。
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個人成績
NBAレギュラーシーズン
プレーオフ
大学
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脚注
外部リンク
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