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プラトン社

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プラトン社
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プラトン社(プラトンしゃ、1922年設立 - 1928年廃業)は、かつて存在した日本出版社である。大阪市化粧品会社「中山太陽堂」(現・クラブコスメチックス)が設立した。

概要 種類, 本社所在地 ...
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苦楽』新年創刊号(第1巻第1号)1924年1月1日発行

データ

略歴・概要

1922年大正11年)、化粧品会社の中山太陽堂は、自社の広報誌を作る計画で、元大阪朝日新聞記者だった松阪青渓(松阪寅之助)が所有する『女学生画報』編集部を買収してプラトン社を設立[3]

中山太陽堂を後ろ盾にし、女性を読者層にねらった斬新な文芸雑誌として、1922年(大正11年)5月に『女性』、1923年(大正14年)12月に『苦楽』の2誌を創刊した[2]。社長は中山豊三、副社長はその義弟の河中作造[注釈 2]であった。当初の谷町の地番は、河中の自宅住所だった。

小山内薫が会社の運営に関与し、『女性』の編集を担当、『苦楽』の編集に直木三十五(当時「直木三十二」)、川口松太郎らが携わっていた。また単行本も月1冊程度のペースで刊行。両誌と単行本に山六郎山名文夫岩田専太郎らを起用した華麗なデザインは一世を風靡し、いわゆる大正モダニズム、阪神間モダニズムの勃興に多大な影響を与えたとされる。おもな執筆者は、泉鏡花大佛次郎谷崎潤一郎武者小路実篤与謝野晶子[2]、非常勤編集者に藤澤清造がいた。

中山太陽堂は、1923年(大正12年)7月に竣工した堂島ビルヂング御堂筋に面する105号室を借りて営業を行い、「クラブ石鹸」「クラブ白粉」の屋上広告を設置していた。また、翌1924年(大正13年)に堂島ビルヂング5階の全フロアを借りて、「婦人文化、家庭文化の向上、児童の健全育成、宗教による精神文化の向上」を目的として、研究機関「中山文化研究所」を開設し、初代所長に医学博士・文学博士の富士川游を招いた[4]。富士川はそこに「婦人精神文化研究会」を設置した。1925年(大正14年)3月、プラトン社は堂島ビルヂング4階に移転。同年夏、直木は同社を辞して、連合映画芸術家協会を設立した。1924年(大正13年)冬、中山太陽堂本社工場に隣接する南区馬淵町(現在の浪速区恵美須西)にプラトン社専属印刷工場が完成したため、1925年(大正14年)9月上旬にプラトン本社も工場敷地内の仮事務所に移転した[3]

1926年(大正15年)1月には雑誌『演劇・映画』を創刊したが、同年8月には休刊した。1927年(昭和2年)1月に東京支局を本社へ昇格、旧本社がプラトン支社となる[5]

1928年(昭和3年)5月、6年間をもって廃業した[3]

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おもな出版物

デジタルアーカイブ

脚注

参考文献

外部リンク

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