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小山内薫

1881-1928, 明治末~大正・昭和初期の劇作家、演出家、批評家 ウィキペディアから

小山内薫
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小山内 薫(おさない かおる、1881年明治14年〉7月26日[1] - 1928年昭和3年〉12月25日[1])は、明治末から大正昭和初期に活躍した日本劇作家小説家演出家批評家詩人[2][3][4]

概要 小山内 薫, 誕生 ...

日本の演劇界の革新にその半生を捧げた"新劇の父" [2][5][6][7]

1909年に「自由劇場」を、1924年に土方与志らと「築地小劇場」を設立し、新劇運動に尽力した[2][3][5][8]。戯曲に『第一の世界』(1920年)、『息子』(1922年)などがある。また、1919年に松竹本社理事兼松竹蒲田撮影所撮影総監督となり、1920年松竹キネマ俳優学校校長、松竹キネマ研究所設立を通して、トーキー(発声映画)が登場する日本映画黎明期に深く関わった[9][10][11]

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来歴

要約
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1881年(明治14年)7月26日、広島陸軍衛戍病院長・小山内建の二男として後の広島市細工町(現在の大手町一・二丁目付近)に生まれた[2][5][12]。父は旧弘前藩士であった[13]。5歳のとき父が38歳で早逝したことから一家で東京市麹町区富士見町へ移り住む[2]。母親が芝居好きで、少年時代から演劇に親しむ[5]麹町幼稚園[14]富士見尋常高等小学校[14]東京府尋常中学校を経て[4]旧制一高に進学。尋常中学校時代には雑俳に打ち込み、宗匠の鶯亭金升から東亭扇升に俳号を貰う[4]。また同門で惣亭芸升を号した二代目市川左団次と交友を結ぶ[4]。高校時代に失恋をきっかけに内村鑑三に入門。内村の主宰する雑誌の編集などを手伝ったが、まもなくキリスト教を離れた。東京帝国大学文科大学文学科に進学。1学年留年しており[5]、英語教師ラフカディオ・ハーンの解任に対する留任運動に加わったためともいわれる[5][15]。在学中から、亡父のかつての同僚でもある森鷗外の知遇を得ており[2]伊井蓉峰の一座の座付作家となって舞台演出に関わったり、詩や小説の創作を行った[2]

1904年(明治37年)、伊井の招きで真砂座の『サフォ』や『ロミオとジュリエット』の翻案や演出を手掛けるようになり[4]、同年「なでしこ」の筆名で処女戯曲『非戦闘員』を発表した[4]。一方で詩や小説、劇評などにも手を染める[4]1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学文学科(英文学)卒業[16]。伊井一座の座付き作者となるが[4]、やがて新派に絶望して[4]、ヨーロッパ近代劇の確立者・ヘンリック・イプセンに新しい演劇の形を見出し、1907年(明治40年)、柳田國男、島崎藤村らと「イプセン会」を創立[4]。同年、知人で木場の材木商だった数井政吉から資金援助を受け、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊[2][7]。6号まで刊行し西欧の演劇評論・戯曲を精力的に紹介した[3][7]1908年(明治41年)に書いた『内的写実主義の一女優』という文献の中で、初めて「演出」という言葉を使ったといわれる[17]。1909年から読売新聞に連載後、1911年出版された自伝的小説『大川端』では、芸者との恋模様を描いた。

1909年(明治42年)、欧州から帰国した歌舞伎俳優の二代目市川左團次と共に自由劇場を結成[2][3][4][7][8]。第1回公演にはイプセン作、鷗外訳の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演し[2][4]。当時ヨーロッパの主導的な芸術理論となりつつあったリアリズム演劇の確立を目指し、新劇運動を起こす[2][3][4][8]。20世紀初頭の日本の代表的演劇は歌舞伎で、看板役者中心の演劇であり、客は個々の役者の芸を堪能しに芝居見物に出かけた。このような演劇のあり方に対して、小山内の考えた近代演劇とは、何より戯曲を優先し、それを正しく表現する媒介としての演出、演出に基づいて初めて演技がある、というものだった[8]。続いてチェーホフゴーリキーなどの作品を次々と上演した[4]

1910年(明治43年)、島崎藤村らの推薦で[4]慶応義塾大学部文学科の講師として迎えられ、劇文学の講義を受け持つ[4][5]

1912年 - 1913年にかけて渡欧し[2][8][18]パリモスクワベルリンロンドンなどを訪れた[8][18]。1913年6月に島崎藤村を訪ねた折りにはシャンゼリゼ劇場で、ヴァーツラフ・ニジンスキーの所属するバレエ・リュスの公演を観る[18]。モスクワではモスクワ芸術座による『どん底』を2回観て、俳優・演出家スタニスラフスキーの自宅に招かれた。この時、輸入業者の夫人としてモスクワに居住していた(後の女優)東山千栄子とも面会している[19]。これら渡欧経験を経て、翻訳劇からの脱却と新国民劇の創造を目指すようになった[4]

同じく渡欧していた親友・山田耕筰は、小山内との関係から演劇や舞踏への傾斜を深め、帰国後の1916年大正5年)、小山内と移動劇団「新劇場」を結成した[20][21][22]石井漠はこれに加わり、創作舞踊詩を始めた[23][24][25]。また、子役時代の水谷八重子を指導した他[26]藤原義江松井須磨子の芝居を観たことと、人を介して小山内ら新劇関係者に会ったことで演劇に憧れ、演劇を志したと話している[27]。この他、古劇研究会を起こし、歌舞伎の研究も進め[4]1918年(大正7年)には市村座の顧問になった[4]

1919年(大正8年)、小村欣一長崎英造久保田万太郎久米正雄吉井勇らと演劇革新を目的とする「国民文芸会」を創立。1920年(大正9年)2月、松竹が映画製作に乗り出し松竹キネマ合名社を設立[9][28]。3月には、この中に創設された松竹キネマ俳優学校に招かれ校長に就任[2][4][9][11][29]。36名の研究生を募集し養成したが、小山内はこれを単なる学校とは考えず、これら生徒と映画を志して小山内のもとにやってきた人々を集めて実習的に映画の製作を始める[30]。同年7月、松竹蒲田撮影所が出来て映画製作が始まると、本社理事兼撮影総監督として村田実牛原虚彦島津保次郎大久保忠素水谷文二郎らをスタッフに従え[4]、『奉仕の薔薇』や『光に立った女』などを製作して映画界の革新を図った[4]。そのため従来の商業路線の製作陣と対立[4]、同年村田、牛原らスタッフ達や映画学校の卒業生らと松竹キネマ研究所を設立した[4]。その第一作として製作した『路上の霊魂』は[31]、同時に進行する出来事をクロスカッティングしたり[4]、回想場面を挿入したりする近代映画の技法をふんだんに取り入れた[4]、日本映画初の芸術大作というべきものだった[4]。同作は、日本映画史上のエポックであるとともに、松竹映画の歴史上でも、貴重な財産として継承される[9]。松竹は今日まで数千本の映画を製作しているが、本作は今日までフィルムが現存し、松竹が所有する最も古い作品である[9][32]。続いて『山暮れる』と『君よ知らずや』の二本を製作するが、興行不振などを理由に1921年(大正10年)松竹キネマ研究所は解散され[4][11]、小山内は松竹の取締役兼相談役に転じた[4]。2年後にはそれも辞し、松竹から退く[4][30]。同じ広島出身のヘンリー・小谷と小山内が松竹に関わったのはほぼ同時期だが[9][10][11][28][33][34]、日本映画に残した功績は計り知れずで[10][11][35][36]、撮影技術はヘンリーが[11]、作品内容や技法的なものは小山内が担った[11]。また日本映画に「女優」を誕生させたこともその一つである[11][29]。それまでの日本映画の女優は「女形」が演じていた[11][37]。「映画は女優で」と強く主張したのは小山内であった[11]。それまで「女形」を使って業界随一を誇った日活向島撮影所[33]の映画に蒲田が追いつき、凌駕するほどの勢いを呼んだのは、蒲田が「女優」を使ったことにあると言われる[11]。蒲田の現代劇に「女形」は存在しなかった[11]。新たに出現した蒲田の女優たちの姿は、瑞々しく魅力的なもので[11]、これが、新派悲劇のヒロインとなって野村芳亭蒲田撮影所長に受け継がれていく[11]。小山内一派の映画はアメリカ映画的な新しい映画作りから見れば、一歩も二歩も後退した旧態のものではあったが[11]、それまでにない通俗性と興行性があり[11]、結構商売になった[11]。映画界に関わった期間は短かったが、人的遺産も多く残し[2][11][30]、村田実や[2][11]伊藤大輔[2][4][30]牛原虚彦[2][11]、蔦見丈夫[11]、佐々木恒次郎(啓祐)[11]北村小松[30]鈴木傳明[4][30]澤村春子[4][30]ら、映画界の人材を育てた功績は大きい[2][4][11][30]

1921年には赤い鳥社から童話集『石の猿』も出版している。この年、5月に日本で公開されたドイツの映画カリガリ博士』を「映画劇最高の到達点」と評した[18]

1923年(大正12年)、中山太陽堂の顧問となり、プラトン社発行の雑誌に関与[7]。この関係で関東大震災後に一時大阪天王寺に居を定める。川口松太郎はこの頃小山内の書生をつとめた。

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設立時の築地小劇場同人。
左から和田精、汐見洋、浅利鶴雄、友田恭助、小山内薫 、土方与志

1924年(大正13年)帰京し、ドイツから帰国した土方与志と共に新劇最初の有形劇場である築地小劇場を創設[2][3][4][7][38]。築地小劇場は、小山内、土方を中心に和田精汐見洋友田恭助浅利鶴雄の六人の同人によって創設されたもの。和田精は和田誠の父、浅利鶴雄は浅利慶太の父である[39]。築地小劇場は経営的には苦しむが、ゴーリキーチェーホフらの戯曲を上演、新劇運動の拠点となった。俳優の養成は勿論、照明音響衣裳などにも新しい試みを行い、「演出」という言葉を創り、「演出家」という職能を確立させる等[17][40]、その後の日本演劇の進展に計り知れぬ影響を与えた[2]

放送劇の開拓者としても知られ[2][4][18]1925年(大正14年)8月には開局まもない東京放送局で日本初のラジオ劇『炭鉱の中』を演出[2][4][18][41]。これは、当時、放送局内に人材がいなかったため小山内に依頼されたものだが、以来、ラジオドラマは新劇が手掛けることとなった[18]。放送に伴い「ラジオドラマ研究会」を設立し[18]、これに吉井勇や久保田万太郎、山田耕筰らも参加した[18]。また、ラジオドラマの製作を機に音響効果が飛躍的に進歩を遂げた[18][42]1927年(昭和2年)には松竹による国産発声映画の先駆作『黎明』を監督[4][18]。また劇評も手掛け、1927(昭和2年)より1年間、朝日新聞で執筆した演劇時評は高い評価を得た[43]

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多磨霊園[44][注釈 1]

1928年(昭和3年)3月、日本初公演となる『ペール・ギュント[45]、同年7月の『真夏の夜の夢』の演出を土方、青山とともに行い[46]、築地小劇場での活動はピークを迎えた。しかし、同年11月、ソ連の革命10周年記念行事に招かれた際に、無理な日程で体調を崩した[2]。同年12月25日、円地文子の最初の戯曲「晩春騒夜」上演後の謝恩会が催された日本橋の中華料理店で倒れ、脳梗塞(もしくは動脈瘤による心臓麻痺)のため急死した[2][4][47][注釈 2]。享年48。戒名は蘭渓院献文慈薫居士[50]。12月28日には築地小劇場にて葬儀が行われた[51]

その生涯の活動は日本近代演劇の開拓者として「新劇の父」と称された。戦後、新劇は運動の域を離れ、文学座俳優座民芸などを中心に職業演劇の道を歩んでいる。

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家族

要約
視点

父・小山内建(玄洋)は陸軍軍医で、高橋お伝の遺体の解剖[52]や、日本で初めてクロロホルム麻酔で手術をしたことで知られる。広島鎮台病院(広島陸軍病院)院長を務め、その後広島医学校の教頭も兼任した[注釈 3]。父の墓は広島市南区比治山陸軍墓地にある[12]。母・錞(しゅん)は小栗忠順の分家にあたる旗本三河小栗氏の出で、藤田嗣治の伯母。

姉二人・兄・妹の5人兄弟で[12]、妹の岡田八千代は18歳で作家デビューし[2]、洋画家岡田三郎助と結婚[2]

長男・小山内徹はミステリ翻訳家。次男・小山内宏は、戦後日本における軍事評論家の先駆者で[53]、その妻は児童作家、随筆家の小山内富子。三男・小山内喬は歌舞伎役者(市川扇升[注釈 4]立松和平は長男・小山内徹の娘婿にあたり、姪は女優の東榮子(宝塚歌劇団6期生の元タカラジェンヌ、宝塚時代の芸名は關守千鳥)。三男の娘婿に演出家の杉田成道[54]児玉源太郎芦原義信とは母方の遠戚にあたる。

 
 
 
 
 
小山内建
(玄洋)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
立松和平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
禮子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
横松心平
(林心平)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小山内薫
 
 
小山内徹
 
美千絵
 
 
桃子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小山内宏
 
 
 
 
 
 
山中聡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中川登女子
 
 
富子
 
 
 
 
 
 
山中崇志(崇史)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡田三郎助
 
 
市川扇升
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
八千代
 
 
 
小栗信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘆原信之
 
 
蘆原敏信(英了)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤田嗣章
 
 
キク
 
 
蘆原義信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘆原太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤田嗣治
 
初子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤田嗣雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
のぶ子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
モト
 
 
 
 
 
 
藤田嗣隆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
児玉源太郎
 
 
 
 
 
 
藤田慎二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ツル
 
 
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逸話

  • 1910年(明治43年)、谷崎潤一郎らと共に第2次『新思潮』を創刊。実質は谷崎ら青年作家の同人誌で、小山内は名貸しをしただけだった。その創刊号は、小山内自身が寄稿した小説『反古』のため、発売禁止になった。
  • 1911年(明治44年)には日本で初めてのカフェー開店にも関わった。この店は洋画家松山省三らが、パリのカフェーのように文化人が集い芸術談義を楽しむサロン的な場所を標榜して東京銀座に開いたもので、松山と同郷で親友の小山内が「カフェー・プランタン」と命名し看板も書いた[5][55]。この店は森鷗外永井荷風北原白秋、谷崎潤一郎、岡本綺堂島村抱月菊池寛ら多くの文化人が会員や常連客となった。
  • 1918年(大正7年)5月、宝塚少女歌劇養成会が初めて東京に進出し帝国劇場で1週間の公演を行った。帝劇に足を運んだ小山内は時事新報紙上で「日本歌劇の曙光」と題して、少女歌劇のことを「こういうものから本当の日本の歌劇が生まれてくるのではないか」と評し、「この一座にはスタアという者がありません」と指摘。宝塚少女歌劇団の演出家だった高木史郎はその著書の中で「宝塚少女歌劇団全体がスターであるという宝塚少女歌劇団の基調を見事に言い当てた」と記している。

著書

戯曲

  • 『自由劇場』郁文堂書店 1912
  • 『第一の世界』新潮社 1922
  • 『息子』東光閣 1924
  • 『亭主』春陽堂 1926
  • 『森有札』改造社 1926
  • 『小山内薫戯曲全集第一巻』春陽堂 1926
  • 『小山内薫戯曲全集第二巻』春陽堂 1927
  • 『許嫁』清香社 1928
  • 『小山内薫戯曲集』(創元文庫)創元社 1953

  • 『小野のわかれ』(『七人』臨時増刊)1905
  • 『夢見草』本郷書院 1906
  • 『小野のわかれ』中庸堂 1907

小説

  • 『窓』(小説集)春陽堂 1908
  • 『蝶』(小説集)水野書店 1909
  • 『笛』(小説集)春陽堂 1910 発禁
  • 『霧積』(小説集)春陽堂 1912
  • 『大川端』樅山書店 1913、春陽堂 1927、春陽堂日本小説文庫 1933
  • 『鷽』(小説集)樅山書店 1913
  • 『一里塚』(小説集)植竹書院 1915
  • 『盲目』四方堂 1915
  • 『手紙風呂』(小説集)通一舎 1915
  • 『第二の女』(小説集)通一舎 1916
  • 『江島生島』新潮社 1916
  • 『伯林夜話』(小説集)春陽堂 1916 発禁
  • 『就眠前』平和出版社 1917
  • 『黄昏の世界―或若い役者の手記―』正午出版社 1917
  • 『英一蝶』(小説集)玄文社 1918
  • 『手鏡』春陽堂 1918
  • 『石の猿』赤い鳥社 1921、ほるぷ出版 1969
  • 『足拍子』プラトン社 1924
  • 『三つの願ひ』春陽堂 1925、ほるぷ出版 1974
  • 『新選小山内薫集』(小説集)改造社 1927
  • 『夢の浮橋』歌舞伎出版部 1929
  • 『東京の消印』(『伯林夜話』の改題)創元社 1949
  • 『お岩 小山内薫怪談集』 (幽クラシックス) メディアファクトリー 2009

評論・随筆・紀行

  • 『演劇新調』博文館 1908
  • 『演劇新声』東雲堂 1912
  • 『演劇論集』日東堂 1916
  • 『世話狂言の研究』天弦堂 1916
  • 『北欧旅日記』春陽堂 1917
  • 『戯曲作法』春陽堂 1918、創元文庫 1953
  • 『旧劇と新劇』玄文社 1919
  • 『芝居入門』プラトン社 1924、岩波新書 1939
  • 『演劇概論』松陽堂 1925
  • 『演劇と文学』集成社 1926
  • 『演劇論叢上巻』宝文館 1928
  • 『演出者の手記』原始社 1928、洗林堂 1941
  • 『舞台芸術』早川書房 1948

翻訳

  • 『決闘』(チエエホフ)梁江堂書房 1910
  • 『近代劇五曲』大日本図書 1913
  • 『星の世界へ』(アンドレエフ)金楼堂 1914
  • 『信仰』(ブリユウ)玄文社 1919
  • 『続近代劇五曲』 国文堂 1921
  • 『忠義』(メエスフィルド)東亜堂 1921
  • 『近代劇五曲』(正続二冊) 金星堂 1921
  • 『忠義』(メエスフィルド)玄文社 1923
  • 『休みの日』(マゾオ)金星堂 1924
  • 『夜の宿』(ゴリキイ)金星堂 1925
  • 『ピツパが踊る』(ハウプトマン)原始社 1926
  • 『隣人の愛』(アンドレエフ)原始社 1926

全集

  • 『小山内薫全集』全8巻 春陽堂 1929〜1932、臨川書店 1975
  • 『小山内薫演劇論全集』全5巻 未来社 1964〜1968
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小山内薫を演じた俳優

脚注

参考文献

関連人物

外部リンク

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