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マリー・ローランサン
フランスの女性画家・彫刻家 ウィキペディアから
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マリー・ローランサン(Marie Laurencin, 1883年10月31日 - 1956年6月8日)は、20世紀前半に活動したフランスの女性画家・彫刻家である。
生涯
要約
視点

マリー・ローランサンは、1883年にパリ10区[注 1] で誕生した。父はのちに代議士となったアルフレッド・トゥーレ (1839年 - 1905年)だが、マリーは彼が父親だということを長い間知らなかった。母はコタンタン半島出身のポーリーヌ・メラニー・ローランサン[1]。
彼女は、レズビアンのアメリカ人駐在員ナタリー・クロフォードのサロンと関係があり、またローランサンは男性とも女性とも関係を持った[2][3]。 パリ9区のリセ・ラマルティーヌ (fr) に学び、画家を志し[4]、アカデミー・アンベールで絵を勉強する。ここでジョルジュ・ブラックと知り合い[注 2]、キュビスムの影響を受けた[注 3]。1907年にサロン・ド・アンデパンダンに初出展。このころ、ブラック[注 4]を介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソや詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネール[注 5]と知り合った。1908年と翌年に『アポリネールとその友人たち』と題し[注 6]2作を残した[注 7]。

アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。だが1911年にアポリネールがモナリザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。結局彼は無罪だったものの[14]、その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作「ミラボー橋」であるという[注 8]。
1914年に31歳でドイツ人男爵(オットー・フォン・ヴェッチェン)と結婚。これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリード、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。戦後、1920年に離婚して単身パリに戻る。離婚後はバイセクシュアルであった[17]。


パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったといい、ココ・シャネルが頼んだ絵 はオランジュリー美術館が所蔵する[注 9]。
舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功した。
- アトリエのローランサン(向かって左)とモデル(1932年)
- ローランサンと学生(1932年)

第二次世界大戦の際はフランスを占領したドイツ軍によって自宅を接収されるといった苦労もありながらも、創作活動を続けた。1954年、シュザンヌ・モローを正式に養女とする。ローランサンは、1956年に72歳で死去した。
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マリー・ローランサン美術館

長野県茅野市の蓼科湖畔にあったマリー・ローランサン美術館は、世界でも唯一のローランサン専門の美術館であった。東京のタクシー会社・グリーンキャブ創業者の館長・高野将弘が収集した個人コレクションが元になり、集客に役立てようとリゾートホテルの敷地に展示施設を計画した。開館の1983年はローランサン生誕100周年にあたり、駐日フランス大使館の助言を受けて「美術館」と称すると決めると[20]、博物館法の規定に沿うように整え同年7月14日に開館する(油彩画22点のほか全46点を公開)[20]。法人移管により拡充した収蔵点数は500点余りを数えたが、観光客減少のため2011年9月30日をもって閉館した[21]。その後、フランス、パリのマルモッタン・モネ美術館、台北の中正紀念堂、台中の国立台湾美術館、 山梨県立美術館(2012年)、また没後60年記念展(2016年)を含む日本各地の巡回展示を経て、2017年7月15日ニューオータニガーデンコート6階で美術館が再開したが、2019年1月14日を以って再び閉館となった[22]。
2022年10月現在[update]、コレクションは600点を超えた(うち油彩画98点)[20]。当館は収蔵品の公開はしないものの展覧会へ貸し出したり[23][17]、情報発信もFacebookで続けている。館長の吉澤公寿(1961年生まれ[注 10])は創業者・高野将弘の息子で同館学芸員[20]、ローランサン研究家として『マリー・ローランサンとその仲間たち』、『もっと知りたいローランサン』を上梓している。
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代表作
- 『アポリネールとその友人たち』、別題『招待』(1908年)(ボルティモア美術館)[24][12]
- 『アポリネールとその友人たち』(1909年)(ポンピドゥー・センター)[26]。別題『田舎の集い』または『高貴な仲間』、『友人たちの会合』[13]。
- 『The Dreamer』(1910年- 1911年)(ピカソ美術館 (パリ))
- 『二人の少女』(1915年)(テート・ギャラリー)
- 『シャネル嬢の肖像』(1923年)(オランジュリー美術館)
- 『接吻』(1927頃)(マリー・ローランサン美術館)
- 『舞台稽古』1936年の万国博覧会のために制作[27]
- 『花摘む少女』(1948年)(個人所蔵)
- 挿絵
- ルイス・キャロル『Alice in Wonderland』Black Sun Press、1930年[28]。
参考文献
主な執筆者の50音順。
- ダニエル・マルシェッソー(fr) 著「序文」、毎日新聞社 編『パリの哀愁とロマン マリー・ローランサン展』大丸梅田店・大丸ミュージアム他、毎日新聞社、1984年、記載なし頁。展覧会図録。巡回展の会場は大丸梅田店・大丸ミュージアム(1984年10月10日-10月29日)、青森市民美術展示館(同年11月6日〜11月25日)、大分県立芸術会館 (1985年1月5日-2月3日)ほか2会場。毎日新聞社主催。
- 山田 茉委「《アポリネールとその友人たち》にみるマリー・ローランサンのキュビスム受容」『早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 = WASEDA RILAS JOURNAL』第6巻、早稲田大学総合人文科学研究センター、2018年10月、377-389頁、ISSN 2187-8307、CRID 1050001202491940864。
- 山田 茉委、加藤 ゆずか「〈美術史学〉優秀修士論文概要」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第65号、2020年3月15日、477-755頁、ISSN 2432-7344、CRID 1050566774854250624。。
- 洋書
- Laurencin, Marie (1956) (フランス語). Le carnet des nuits. ジュネーブ: Pierre Cailler. p. 22
- 日本語訳:マリー・ローランサン 著、大島辰雄 訳『夜の手帖 : マリーローランサン詩文集』六興出版、1977年、98頁。ISBN 4845360012。CRID 1130000798091498880。
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脚注
資料
関連項目
外部リンク
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