トップQs
タイムライン
チャット
視点
ミハエル・ミキッチ
クロアチアのサッカー選手 ウィキペディアから
Remove ads
ミハエル・ミキッチ(Mihael Mikić、1980年1月6日 - )は、クロアチア・ザグレブ出身の元プロサッカー選手。
Remove ads
来歴
要約
視点
欧州クラブ時代
7歳のとき、NK Bistraというクラブの下部組織でサッカーを始める。13歳のとき、NKインケル・ザプレシッチ(現NKインテル・ザプレシッチ)のユースへ加入し、16歳でこのクラブにおいてプロのキャリアをスタート。2年目にクロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ移籍し、19歳までにレギュラーをつかんだ。同い年であり、スピードタイプのFWというプレースタイルも似ていたことから、当時はサポーターから「クロアチアのマイケル・オーウェン」と呼ばれ、将来を嘱望された。
1998年秋には、18歳にしてクロアチア・ザグレブのメンバーとしてUEFAチャンピオンズリーグに参加。初戦となるホームのFCポルト戦で、前半7分にクラブのチャンピオンズリーグ第1号ゴールを決めている。クロアチア・ザグレブはこのポルト戦に勝利し、さらにアヤックス・アムステルダムに勝利、オリンピアコスに引き分けるなど健闘したが、決勝トーナメント進出はならなかった。ミキッチはクロアチア・ザグレブのホームゲーム3試合に全て出場(うち2試合は先発)し、ストライカーとしてプレーした。
しかし翌1999年、クラブが三浦知良らの外国人FWを獲得。助っ人外国人の起用優先というクラブの方針により、満足な競争も行われないままレギュラーの座を奪われる。この年もチャンピオンズリーグに出場し、グループステージ6試合中5試合に出場したものの、先発は1試合だけだった。最終戦のオリンピック・マルセイユ戦で、2-2のドローに持ち込む同点ゴールを挙げたが、クロアチア・ザグレブはグループステージ最下位に終わった。さらにこの時期、血液の病気に侵されてしばらくサッカーから離れる不運も重なり、不振が続いた。
そんな折、1999年のシーズン途中にクロアチア・ザグレブの監督に就任したオズワルド・アルディレスは、ミキッチのスピードに目をつけ、サイドプレーヤーへの転向を打診。FWにこだわりを持っていたミキッチは当初激しく反発し、またアルディレスも成績不振から早期解任されたものの、結果的にはこれがミキッチのサッカー人生における転機となった。
以降、サイドプレーヤーとして2003-2004シーズンまでの7シーズンの間、クロアチア・ザグレブ/ディナモ・ザグレブでのプレーを続け、翌2004-2005シーズンより、初の国外クラブとなるドイツ・ブンデスリーガの1.FCカイザースラウテルンに移籍した。ドイツでの1年目は、リーグ戦でわずか6試合の出場にとどまる。2年目も前半戦は4試合出場とレギュラーをつかめないでいたが、ウインターブレーク明けからレギュラーとなり、シーズン終了までに前半戦と合わせて20試合に出場した。しかし、2年間でリーグ26試合、公式戦29試合に出場して無得点という結果に終わり、チームも2005-2006シーズンは16位で2部降格となってしまった。
2006年6月に、再びクロアチアに戻ってHNKリエカと契約。6月13日のUEFAカップ1回戦・対ACオモニア戦の第1レグで公式戦デビューを飾るが、リエカは2戦合計3-4でオモニアに破れ、1回戦で姿を消した。国内リーグ戦では6月30日の2006-2007シーズン開幕戦で初出場し、勝利に貢献した。しかしシーズン途中の2007年1月、わずかリーグ14試合に出場したところでリエカを退団し、古巣であるディナモ・ザグレブへ移籍。23試合で4ゴールを挙げる活躍を見せた。
Jリーグでのプレー
2009年より、Jリーグ・サンフレッチェ広島へ完全移籍した[1]。すぐに右サイドのレギュラーに定着、同シーズンリーグ4位に貢献[2]、加入以降は怪我による離脱はあったが、右サイドのレギュラーを確保し続け、2012年、2013年のJ1連覇、2015年のリーグ制覇に中心プレーヤーとして重要な役割を果たした[3]。
2010年8月28日のモンテディオ山形戦で移籍後初ゴールととなる決勝ゴールを決めた[4][5]。
上記のクラブ遍歴を経て選んだJリーグのレベルを高く評価する一方で、日本人選手の安易な海外志向に疑問を呈している[6]。
2014年には在籍が6年目を迎え、1993-1997年の5年間在籍した盧廷潤を越えて、広島の外国籍選手では史上最長在籍の選手となっていた。2017年5月14日のセレッソ大阪戦では試合には敗れたが、現役最後となるゴールを決めた[7]。 2017年を以て契約満了により広島を退団[8]。
2018年より、湘南ベルマーレに移籍[9]。シーズン終了後に退団を発表した。
湘南退団後は、現役を続けるためオファーを待ったが、オファーは届かず、2019年4月18日に現役引退を発表した[10]。J1通算227試合8ゴールの成績を残した[5]。
代表
1997年に、アイルランドで開催されたUEFA U-19欧州選手権の対北アイルランド戦で、17歳でU-19代表デビュー。同大会では3試合に出場し1得点を挙げた。翌年のキプロス大会にも出場し、クロアチアの中心選手として4試合で3得点の活躍。チームの3位に 貢献した。1999年のスウェーデン大会にも3大会連続で出場し、4試合で1得点を挙げている。
U-19での最後の国際試合を勝利で終えた後、1999年にナイジェリアで行われたFIFAワールドユースにおいてU-20代表デビュー。チームの全4試合に出場し、ベスト16の成績を挙げた。ここから1999年末までに開催されたUEFA U-21欧州選手権予選では5試合に出場して3得点を挙げた。2000年の本大会に出場を果たすも、グループステージ敗退。以降も2001年までU-21代表でのプレーを続け、6試合で3得点を挙げている。
Remove ads
人物
現在はサイドプレイヤーとしての起用が最も多いが、過去には攻撃的ミッドフィルダー、ストライカーとしてもプレーした経験がある(上記来歴参照)。
妻のリュプカ・ゴイッチ(en:Ljupka Gojić)は、ジバンシィに所属するクロアチアのファッションモデル。
母国への帰還後は、首都ザグレブでカフェを経営している[3]。
個人成績
その他の公式戦
- 2014年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- 2015年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2016年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
タイトル
クラブ
- ディナモ・ザグレブ
- プルヴァHNL:6回(1997-98、1998-99、1999-00、2002-03、2006-07、2007-08)
- クロアチアカップ:5回(1998年、2001年、2002年、2007年、2008年)
- クロアチアスーパーカップ:2回(2002年、2003年)
- サンフレッチェ広島
- Jリーグ ディビジョン1:3回(2012年、2013年、2015年)
- ゼロックススーパーカップ:3回(2013年、2014年、2016年)
- 湘南ベルマーレ
代表歴
- U-19クロアチア代表
- U-20クロアチア代表
- 1999年 - FIFAワールドユース
- U-21クロアチア代表
- 2000年 - UEFA U-21欧州選手権
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads