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モーツァルトの協奏曲
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モーツァルトの協奏曲では、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの協奏曲を作品リストにし、協奏曲作品を詳細に述べる。
作品一覧
総覧
ピアノ協奏曲
協奏交響曲
ヴァイオリン協奏曲
フルート協奏曲
ホルン協奏曲
その他の協奏曲
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楽曲解説
要約
視点
ピアノ協奏曲
第1番から第27番までの番号付きは各項目を参照
コンサート・ロンド ニ長調 K.382
コンサート・ロンド イ長調 K.386
1782年の10月19日にウィーンで作曲された作品。ピアノ協奏曲第12番の終楽章の差し替えとして構想されたものといわれている。しかし現存する楽譜は数度にわたり散逸したため不完全である。
コンサート・ロンド イ長調 K.488d
1786年の2月または3月にウィーンで作曲された断片のみの作品。全体は11小節のみで、恐らくピアノ協奏曲第23番の終楽章の草案と考えられている。
ピアノ協奏曲楽章 ニ長調 k.Anh.57(537a)
ピアノ協奏曲楽章 ニ長調 k.Anh.58(488a)
1785年及び1786年にウィーンで作曲された断片のみの作品。全体は10小節のみで、恐らくピアノ協奏曲第23番の終楽章の草案と考えられている。
ピアノ協奏曲楽章 ハ長調 k.Anh.59(459a)
ピアノ協奏曲楽章 ハ長調 k.Anh.60(502a)
ピアノ協奏曲楽章 ニ短調 k.Anh.61(537b)
ピアノ協奏曲楽章 変ホ長調 k.Anh.62(491a)
1786年にウィーンで作曲された断片のみの作品。ピアノ協奏曲第24番の緩徐楽章の草案と考えられている。
ピアノ協奏曲楽章 イ長調 k.Anh.63(488b)
1785年及び1786年にウィーンで作曲された断片のみの作品。全体は23小節のみで、恐らくピアノ協奏曲第23番の終楽章の草案と考えられている。
ピアノ協奏曲楽章 イ長調 k.Anh.64(488c)
1785年及び1786年にウィーンで作曲された断片のみの作品。全体は27小節のみで、恐らくピアノ協奏曲第23番の終楽章の草案と考えられている。
ピアノ協奏曲楽章 ハ長調 k.Anh.65(452c)
1784年頃の4月にウィーンで作曲された断片のみの作品。全体は10小節のみで、ピアノ協奏曲第17番の緩徐楽章の草案と考えられている。
協奏交響曲
木管楽器のための協奏交響曲 ト長調 K.320
1779年の8月3日にザルツブルクで編曲された作品。セレナード第9番の第3楽章と第4楽章をそのまま協奏交響曲の形に移した作品である。
ヴァイオリン、ヴィオラとチェロのための協奏交響曲 イ長調 K.Anh.104(320e)
1779年または1780年にザルツブルクで作曲された作品。断片のみで全体は134小節のみ現存している。オットー・バッハ、フィリップ・ウィルビー、三枝成彰らが補筆している。
ヴァイオリン協奏曲
番号付きは各項目を参照
ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド 変ロ長調 K.269(261a)
1775年から1777年にかけてザルツブルクで作曲されたヴァイオリンと管弦楽のための作品。第1番の終楽章の代替曲として作曲されたものといわれている。
ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド ハ長調 K.373
1781年の4月2日にウィーンで作曲されたヴァイオリンと管弦楽のための作品。ヴァイオリニストのアントニオ・ブルネッティのために作曲されたもの。ニ長調に移調したフルート協奏曲版(K.Anh.184)が1790年ごろに出版されており、モーツァルト自身が編曲したか、少なくとも編曲に関与したと考えられている。こちらの演奏の機会も多い。
2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ ハ長調 K.190(186E)
1774年の5月31日にザルツブルクで作曲された2つのヴァイオリンと管弦楽のための3楽章からなる作品(自筆譜のタイトルは単に「コンチェルトーネ」であり、独奏楽器の指定はない)。「コンチェルトーネ」とは、協奏交響曲とは別の、交響曲と協奏曲の中間に位置する楽曲。この作品にはオーボエやチェロの独奏部分もあり、協奏曲というよりは娯楽音楽的な色彩が強い。作曲の動機については不明であるが、モーツァルト自身第1・2楽章にカデンツァを書くなど、自信作だったことがうかがえる。
ヴァイオリンと管弦楽のためのアンダンテ イ長調 K.470
2つの独奏ヴァイオリンを伴う管弦楽曲の楽章 K.Anh.223c(Anh.A50)
1773年にザルツブルクまたはウィーンで作曲されたとされるヴァイオリンと管弦楽のための作品。断片のみで全体は13小節のみ現存する。セレナードやディヴェルティメント、協奏交響曲の一部分とされているが不明で、また他の作曲家の作品を筆写したものであると推測されているがいずれも不明である。
フルート協奏曲
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ホルン協奏曲
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その他の協奏曲
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ヴァイオリンとピアノのための協奏曲 ニ長調 K.Anh.56 (315f)
1778年11月、マンハイムで同市の宮廷楽団コンサートマスターイグナーツ・フレンツルが主催する市民演奏会のために作曲したと伝えられるが、前年に急死したバイエルン選帝侯マクシミリアン・ヨーゼフの後を継いだマンハイムのプファルツ選帝侯カール・テオドールがバイエルン継承戦争、テッシェン条約を経て1789年に宮廷楽団ごとミュンヘンに移った(フレンツルはコンサートマスターの職を辞してマンハイムに残留)事により演奏の見込みが無くなったためか、もしくは作曲直後にモーツァルトがパリへ渡ったためかは不明だが、独奏楽器による第2主題へ移行する途中までの120小節(総譜は74小節)までの未完に終わった。ロバート・レヴィン、フィリップ・ウィルビーによる補筆あり。
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