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ラリー・レーン
アメリカ合衆国コロラド州出身のプロレスラー ウィキペディアから
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ラリー・レーン(Larry Lane、1946年 - )は、アメリカ合衆国コロラド州出身のプロレスラー[1][2]。出身地はカナダのアルバータ州カルガリーともされる[3]。
レスリングの下地を持つ技巧派のベビーフェイスとして、テキサス西部のアマリロ地区やカルガリーのスタンピード・レスリングなどを主戦場に活動した[4]。
来歴
要約
視点
ノーザン・コロラド大学ではレスリングの選手として活躍し、陸軍でもオールアーミーとオールサービスのチームに所属[5]。日本で紹介されたプロフィールでは1972年ミュンヘンオリンピックにも参加したとされる[3]。ハイスクールのレスリング・コーチを経て[4]、1973年にプロレスラーに転向[1]。
デビュー後はドリー・ファンク・シニアが主宰していたテキサス州アマリロのNWAウエスタン・ステーツ・スポーツを主戦場とし、師匠格のドリー・ファンク・ジュニアをはじめ、ムース・モロウスキー、レス・ソントン、バック・ロブレイ、カール・フォン・スタイガー、若手時代のスタン・ハンセンなどと対戦した[6]。
アマリロ地区での活動と並行して、スチュ・ハートの主宰していたカルガリーのスタンピード・レスリングにも出場。カウボーイ・ラリー・レーン("Cowboy" Larry Lane)と名乗り、テキサスからやって来た正義のカウボーイとしてアブドーラ・ザ・ブッチャーやセーラー・ホワイトとも対戦した[7]。1974年2月12日にはアーチー・ゴルディーを下してフラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を獲得[8]。翌々日にゴルディーに奪還されたものの、同年6月19日と21日にはカルガリー地区に遠征してきたジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦した[9]。戴冠期間は長くはないが、北米ヘビー級王座には1975年1月10日にビッグ・ジョン・クイン、同年8月7日にカーティス・イヤウケアを破って返り咲いている[8]。
1976年4月、全日本プロレスに初来日して『第4回チャンピオン・カーニバル』に出場[3]。公式リーグ戦ではジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、大木金太郎、ザ・デストロイヤー、カルガリーでも因縁を持つブッチャーやイヤウケアらと対戦したが、グレート小鹿、バディ・ウォルフ、ラリー・シャープから3勝を挙げたのみで、戦績は芳しくなかった[10]。
日本遠征では真価を発揮できなかったが、本拠地のアマリロでは1976年7月22日に8人参加のワンナイト・トーナメントに優勝して、空位となっていたNWAインターナショナル・ヘビー級王座を獲得[11]。1978年2月2日にはファンク・ジュニアと組んで、ブルート・バーナード&フランク・モレルからNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を奪取し、9月28日にロジャー・カービー&ダグ・サマーズに敗れるまで保持した[12]。
1979年4月には全日本プロレスの『NWAチャンピオン・シリーズ』に再来日[13]。同年はカルガリーでもファンク・ジュニアとコンビを組み、来日直前の4月13日にレオ・バーク&キース・ハートからインターナショナル・タッグ王座を奪取、ミスター・ヒト&ミスター・サクラダともタイトルを争った[14]。8月11日にはビッグ・ダディ・リッターを破り、北米ヘビー級王座への5回目の戴冠を果たした[8]。
1980年にはアマリロ地区でNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座やロッキー・マウンテン・ヘビー級王座を獲得したが[15][16]、同地区の活動停止後はテキサス東部のサンアントニオやヒューストンなどで活動[17]。その後は1982年から1983年にかけて、レッド・ドッグ・レーン(Red Dog Lane)のリングネームでミッドアトランティック地区のアンダーカードに出場[17]。キャリア末期の1983年4月13日にはサウスカロライナ州コロンビアにおいてジェイク・ロバーツと組み、リッキー・スティムボート&ジェイ・ヤングブラッドの保持していたNWA世界タッグ王座に挑戦した[18]。
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得意技
獲得タイトル
- 北米ヘビー級王座:5回[8]
- インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ドリー・ファンク・ジュニア)[14]
追記
脚注
外部リンク
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