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バディ・ウォルフ

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バディ・ウォルフBuddy Wolfe、本名:Leslie Charles Wolff[3]1941年4月11日 - 2017年7月11日[4])は、アメリカ合衆国プロレスラーミネソタ州ブルーアース出身。

概要 バディ・ウォルフ, プロフィール ...

地元ミネソタのAWAを主戦場に活動した[5]マッドドッグ・バションブッチャー・バションの妹、ビビアン・バションの夫でもあった[1]

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来歴

要約
視点

学生時代はレスリングアメリカンフットボールで活躍、レスリングでは94%の勝率を誇ったという[6]セントクラウド州立大学卒業後、ディフェンシブエンドとしてコンチネンタル・フットボール・リーグ英語版ノーフォーク・ネプチューンズ英語版に入団[2]。その後、バーン・ガニアのトレーニングを受けて1968年にプロレスラーとしてデビュー[1]。キャリア初期は本名からレス・ウォルフLes Wolff)をリングネームに、ベビーフェイス陣営で活動した[2]

1970年7月、ガニア主宰のAWAとの提携ルートで国際プロレスに初来日[6]。7月28日の長野大会ではストロング小林が保持していたUSAヘビー級王座に、8月11日の苫小牧大会ではドクター・デスと組んでグレート草津&サンダー杉山IWA世界タッグ王座にそれぞれ挑戦した[7]。9月開幕のシリーズにも覆面レスラーブルー・デモンBlue Demon)に変身して残留参戦し、同月15日に福岡市九電記念体育館にて杉山のIWA世界ヘビー級王座に挑戦[8]。10月8日の大阪府立体育館大会ではメッサーシュミット(クラウス・カーロフ)を、10月15日の佐野大会ではギル・ヘイズをそれぞれパートナーに、草津&杉山のIWA世界タッグ王座に再挑戦した[8]

アメリカでも中南部のNWAトライステート地区で覆面を被り、ザ・スポイラーのパートナーとしてスポイラー2号Spoiler #2)に一時変身、1971年5月2日にザ・ケンタッキアンズ(グリズリー・スミス&ルーク・ブラウン)からUSタッグ王座を奪取している[9]。同地区ではビル・ワットをはじめ、バディ・オースチンスプートニク・モンロービリー・レッド・ライオンデール・ルイスなどとも対戦した[10]

その後、"ビューティフル" バディ・ウォルフ"Beautiful" Buddy Wolfe)と名乗って素顔でもヒールに転向。AWA圏では1972年4月8日、ネブラスカ州オマハにて中西部ヘビー級王座を獲得した[11]。同年10月からはWWWFに参戦し、フィラデルフィアボストンなど北東部各地において、ペドロ・モラレスWWWFヘビー級王座に再三挑戦[12]ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでは、1973年2月26日にミル・マスカラス、3月26日にアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦している(アンドレは、同日がMSGデビュー戦だった)[2][13]

1973年6月には国際プロレスに再来日。同時参加したテキサス・アウトローズに次ぐ3番手外国人のポジションで、グレート草津やアニマル浜口との金網デスマッチも行われた[14]。帰国後は主戦場のAWAにて、ワフー・マクダニエルビル・ロビンソンクラッシャー・リソワスキーらと抗争。タッグではラリー・ハイニエミことラーズ・アンダーソンとのコンビで活躍した[15]。国際プロレスには、AWA世界ヘビー級王者のバーン・ガニア、AWA世界タッグ王者ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスが同時参加した1974年11月の『ワールド・チャンピオン・シリーズ』にも来日している[16]。その後はテキサスの東部地区を経て、1976年4月に全日本プロレスの『第4回チャンピオン・カーニバル』に出場したが、戦績は芳しくなかった[17]

1976年6月10日、イリノイ州シカゴのインターナショナル・アンフィシアターにて、同月26日にアントニオ猪木との異種格闘技戦が決定していたモハメド・アリのプロモーション用の対戦相手に起用され、16オンスのグローブを着けたアリとラウンド制のミックスド・マッチで対戦[18]。アリのセコンドにはフレッド・ブラッシー、ウォルフのセコンドにはディック・ザ・ブルーザーが付き、レフェリーはバーン・ガニアが務めた(結果はウォルフが流血して乱闘となり、レフェリーのガニアが試合を中止。当日は同じくAWAのレスラーだったケニー・ジェイとアリとの試合も行われたが、ジェイはKO負けを喫した)[18]

1977年NWAフロリダ地区において、3月8日に行われたトーナメントを制し、空位となっていたNWAフロリダ・ヘビー級王座を獲得[19]。以降、ボブ・バックランドジャック・ブリスコジョー・ルダックスティーブ・カーンマイク・グラハムアーニー・ラッドらを挑戦者に[20]、6月に前王者ダスティ・ローデスに敗れるまで戴冠した[19]。NWA圏ではセントルイスキール・オーディトリアムにも出場しており、1978年3月17日の興行ではリック・フレアー&オックス・ベーカーと組み、アンドレ・ザ・ジャイアント&ディック・ザ・ブルーザーと3対2のハンディキャップ・マッチで対戦している[21]

1979年からは本拠地のAWAに定着し、うるさ型のベテラン・ヒールとして、スティーブ・オルソノスキーポール・エラリングディノ・ブラボーなど新鋭選手のジョバーを担当[22]1982年には、当時AWAで大ブレイクしていたハルク・ホーガンのジョバーも務めた[23]。以降はセミリタイア状態となるも、1980年代後半までAWAに出場し、1987年にはショーン・マイケルズスコット・ホールジミー・スヌーカとも対戦した[24]

引退後はミネソタ州ハッケンサックに居住。2000年代はカリフラワー・アレイ・クラブなどのOB会に姿を見せていた。2017年7月11日、76歳で死去[4]

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得意技

獲得タイトル

アメリカン・レスリング・アソシエーション
  • AWA中西部ヘビー級王座:2回[11]
NWAトライステート
NWAビッグタイム・レスリング
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回[2]
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回[19]

脚注

外部リンク

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