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リカルド・サ・ピント

ポルトガルのサッカー選手・監督 ウィキペディアから

リカルド・サ・ピント
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リカルド・サ・ピント (Ricardo Sá Pinto) ことリカルド・マヌエル・デ・アンドラーデ・ダ・シルヴァ・サ・ピント(Ricardo Manuel de Andrade da Silva Sá Pinto、1972年10月10日 - )は、ポルトガルポルト出身の元同国代表の元サッカー選手。現サッカー指導者。現役時代のポジションはMFFW[1][2]

概要 リカルド・サ・ピント, 名前 ...

闘志溢れるプレーや性格からスポルティングCPのファンからは、リカルド・コラソン・デ・レオン(Ricardo, Coração de Leão、ポルトガル語で「獅子心王リチャード」のこと)と呼ばれている[3]

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経歴

要約
視点

現役時代

ポルトに生まれたサ・ピントは、地元のSCサルゲイロスでプロデビューしてから程なくしてU-21ポルトガル代表に選出され、UEFA U-21欧州選手権1994で決勝に進出した。

1994-95シーズンにトップリーグの強豪スポルティングCPと契約を締結。スポルティングで安定したプレーを披露した後、スペイン1部レアル・ソシエダと契約し、1998年8月30日の移籍後初出場となったレアル・オビエド戦(ホーム3-3)で公式戦初得点を挙げた。

レアルで70試合6得点を記録(1年間の出場停止処分により出場は2シーズン)後、スポルティングへ復帰し6シーズンの在籍で最終的に主将を務めたが、幾度もの怪我に悩まされていた[4][5]。2006-07シーズンに同胞のセルジオ・コンセイソンと共にベルギー1部スタンダール・リエージュ(同胞のジョルジュ・コスタが夏に同クラブで引退)へ移籍[6] し、35歳間近で引退した[7]

指導者時代

2009年11月初旬にスポルティングCPへ戻ったサ・ピントは、元同僚のペドロ・バルボーザに代わりディレクター職に就任すると、まず手始めに成績不振を理由に同クラブのパウロ・ベント監督を解雇した[8]。2010年1月21日、タッサ・デ・ポルトガルCDマフラ戦(ホーム4-3勝利)後にロッカールームでリエジソンと衝突し殴り合いに発展したため、辞表を提出した[9]

2010年にペドロ・カイシーニャ英語版監督の下でUDレイリアのアシスタントに任命され、指導者としての一歩を踏み出した。2012年2月13日、スポルティングCPのユースチームを率いていたところ、トップチームのドミンゴス・パシエンシア監督が解任されたため、暫定ながら後を引き継いだ[10]。リーグ戦を4位で終え、タッサ・デ・ポルトガル決勝で優勝を逃したが、2012年5月25日に契約が2年延長された[11]。しかし、UEFAヨーロッパリーグ 2012-13で元同僚のパウロ・ソウザ監督率いるヴィデオトンFCに0-3で敗れたことで10月4日に解任された[12]

2013年3月8日にセルビア1部の強豪レッドスター・ベオグラードの監督に就任[13] し、最初のリーグ戦8試合で勝利を収めたが、クラブ上層部との意見の相違から6月19日に退任した[14]

代表

サ・ピントは、ポルトガル代表として45試合9得点を記録。1994年9月7日にベルファスト北アイルランド戦(2-1勝利)でA代表初出場を飾る。UEFA EURO '96では、グスープステージ初戦のデンマーク戦 (1-1) で得点。UEFA EURO 2000にも招集された。

1997年3月26日、サ・ピントは自身が試合に招集されていない知らせを聞くと、リスボンエスタディオ・ナシオナルで代表チームが練習している中で突如現れ、アルトゥール・ジョルジェ監督の顔を殴る暴挙に出る。そのため、クラブ及び代表での出場を1年間禁止された[15]

2002 FIFAワールドカップは怪我の影響から選出されなかったため、2001年6月6日のキプロス戦(6-0勝利)が代表での最後の試合となった。

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監督成績

2024年2月19日現在
さらに見る クラブ, 就任 ...
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タイトル

選手時代

スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル

監督時代

スタンダール・リエージュ
エステグラル FC
APOELニコシア

脚注

外部リンク

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