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レアル・ソシエダ
スペインのサッカークラブ ウィキペディアから
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レアル・ソシエダ・デ・フトボル(スペイン語: Real Sociedad de Fútbol) は、バスク州ギプスコア県サン・セバスティアンに本拠地を置くスペインのサッカークラブ。プリメーラ・ディビシオンに所属している。レアル・ソシエダードと表記するマスメディアもある[1]。
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名称
チーム名を直訳すると王室公認サッカークラブである。白地に青の縦縞が入ったユニフォームを身に着け、愛称はバスク語で「白・青」を意味する「チュリ・ウルディン(Txuri-urdin)」。クラブ公式アンセムの曲名も同様。
スペインで「レアル(La Real)」と言った場合、レアル・マドリードよりも当クラブを指す。「レアル」を意味する「エレアラ(Erreala)」も愛称として使われる。
ライバル
同じバスク地方にあるアスレティック・ビルバオが最大のライバルで両クラブによるバスクダービーが注目されている。また、サッカー界では珍しく、友好関係があるダービーといわれている[2]。
育成
レアル・ソシエダはスペイン国内で育成に定評があり、シャビ・アロンソやアントワーヌ・グリーズマン、アシエル・イジャラメンディといった選手を輩出。スペインの有力紙「Expansión」では2012年から2015年までに行った育成部門の利益が計算され、1位のサウサンプトンFCに続いて3位にランクインした[3]。
歴史
要約
視点
クラブ創設と称号授与
1900年代初頭、イギリスから帰国した学生や労働者によってサン・セバスティアンにサッカーがもたらされた[4]。1903年にはサン・セバスティアン・レクレーション・クラブが作られ、1905年には当時におけるスペイン最高峰の大会であったコパ・デル・レイに初参加。同年5月、レクレーション・クラブからサッカー部門がサン・セバスティアン・フットボール・クラブとして独立した。1909年にはコパ・デル・レイへの出場を申請し、登録認可の問題からスペイン語名のクルブ・シクリスタ・デ・サン・セバスティアンとして参加して、決勝でクルブ・エスパニョール・デ・マドリードを3-1で下して優勝した。1909年9月7日にはソシエダ・デ・フトボルが創立された。1910年、スペインの各クラブはふたつのカップ戦のどちらかで戦っており、ソシエダ・デ・フトボルはバスコニア・デ・サン・セバスティアンとしてコパUECFに出場した。同年にはサン・セバスティアンを夏の首都(summer capital)として使用していたアルフォンソ13世によってレアルの称号が授与され、レアル・ソシエダ・デ・フットボールという名称に変更された[4]。
1928年にはリーガ・エスパニョーラ(全国リーグ)が創設され、発足メンバー10クラブに選ばれると、得点王のパコ・ビエンソバスを擁したクラブは4位に食い込んだ。スペイン第二共和政の到来により、1931年にはドノスティア・クルブ・デ・フトボルに名称が変更されたが、1939年のスペイン内戦終結後にレアル・ソシエダ・デ・フトボルに戻った。しばらくはプリメーラ・ディビシオン(1部)とセグンダ・ディビシオン(2部)を行ったり来たりし、1940年代には7度も降格と昇格を繰り返した。1966-67シーズン終了後に昇格すると、それ以後はプリメーラ・ディビシオンに定着した。
1970年代から1980年代の黄金期
アルベルト・オルマエチェア監督はクラブの下部組織で育った若手有望選手を巧みに登用し、1970年代後半から1980年代前半にかけてクラブの全盛期を築いた。1979-80シーズンは32試合連続無敗のリーグ新記録を樹立して2位となり、失点率0.58を記録したルイス・アルコナーダがクラブ史上初のサモラ賞(最少失点率キーパー)受賞者となると、このシーズンから3シーズン連続で同賞を受賞。アルコナーダはファンから絶大な人気を得て、「No pasa nada, tenemos a Arconada」(心配はいらない、我々にはアルコナーダがいる)という有名なチャントが歌われた[4]。アルコナーダに加え、ヘスス・マリア・サトゥルステギ、アルベルト・ゴリス、ペリコ・アロンソ、ロベルト・ロペス・ウファルテ、ヘスス・マリア・サモラ、若手のホセ・マリ・バケーロなど、数多くの地元出身選手が主力としてプレーした。1980-81シーズンにはレアル・マドリードと白熱した優勝争いを演じ、最終節のスポルティング・ヒホン戦ではサモラがロスタイムに得点して劇的な優勝を決めた[4]。1981-82シーズンの優勝争いも緊迫した展開となったが、第33節に首位に立つと、最終節(第34節)でビルバオとのバスク・ダービーを制して2連覇を達成。1982年にはスーペルコパ・デ・エスパーニャで優勝し、1982-83シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは最終的に優勝するハンブルガーSV(ドイツ)に敗れたものの、準決勝進出を果たした。
1985年にはジョン・トシャック監督が就任し、1986-87シーズンには2度目のコパ・デル・レイ優勝を果たした。1989年にアルコナーダやサモラが現役引退すると、レアルの成功期は幕を閉じた[4]。同じくバスク地方のクラブであるアスレティック・ビルバオとともにバスク人のみでチームを構成していたが、1989年にリヴァプールFCからアイルランド出身のジョン・オルドリッジを獲得して、長年続けてきた哲学に別れを告げた。このアスレティック・ビルバオとの試合はバスク・ダービー(Derbi vasco、デルビ・バスコ)と呼ばれ、相手チームのファンと肩を組んで応援するなど、友好的なダービーとして知られている。
2000年代前半の躍進
2002-03シーズンにはセルビア代表のダルコ・コバチェビッチ、トルコ代表のニハト・カフヴェジ、ロシア代表のヴァレリー・カルピン、オランダ代表のサンデル・ヴェステルフェルトら多国籍の選手を擁し、古参のフランシスコ・デ・ペドロに地元出身のシャビ・アロンソなども加わったチームはプリメーラ・ディビシオンで冬のチャンピオンに躍進した。2003年4月にはホームのエスタディオ・アノエタでレアル・マドリードを破り、リーグ戦2試合を残して首位に立っていたが、第37節でセルタ・デ・ビーゴに敗れてレアル・マドリードに優勝をさらわれた。しかし、ホームでは無敗を誇り、71得点を挙げたチームは2位でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。23得点のニハトと20得点のコバチェビッチは得点ランキングで2位と4位につけた。2003-04シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグを突破するなど健闘を見せた。
セグンダ降格とプリメーラ復帰
しかし、その後は降格圏付近をさまようシーズンが続き、2006-07シーズン終了後には1967年以来40年ぶりのセグンダ・ディビシオン降格が決定した。ジョン・トシャック元監督の推薦で2007年7月にクリス・コールマン監督を招聘したが、中国系ファンドをバックにイニャキ・バディオラ新会長が就任すると、大規模な補強を進めようとする首脳陣に反対したコールマン監督が辞任し、チームも終盤に昇格圏外の4位に落ちてプリメーラ・ディビシオン復帰はならなかった。2008年12月には理事会の承認を受けられずにバディオラ会長が辞任し、ホキン・アペリバイ新会長に代わった。3000万ユーロ以上あるとされた借金により厳しいクラブ運営を強いられ、2008年7月には地元裁判所に破産を申請して承認された。それにともなって多くの選手を放出したが、若手選手を中心としたチームで2009-10シーズンのセグンダ・ディビシオンを制覇し、4シーズンぶりにプリメーラ・ディビシオンに復帰した。
2025年ヤスダグループ事件に巻き込まれる
2024年より5年間のスポンサー契約を結んだ日本企業のヤスダグループが2025年アジアツアーFCバルセロナとの未払い問題に発展。2025年7月27日ヴィッセル神戸戦など韓国開催を含めた3試合の興行に関わるも不正行為で韓国側やFCバルセロナとの信頼関係を壊し破綻。当初、慎重な姿勢でコメントを残していたソシエダも以降、公式発言はないが協力関係は維持つつ胸スポンサーから外される結果となる。
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スタジアム
1913年にエスタディオ・デ・アトーチャ(Estadio de Atotxa)が完成した。アスレティック・ビルバオとのバスクダービーが初開催試合となり、アトレティックのピチーチがスタジアム初の得点者となった[4]。80年以上もアトーチャをホームスタジアムとして使用していたが、1993年以降は32,000人収容のエスタディオ・アノエタをホームスタジアムとして使用している[4]。アノエタはかつてUEFAエリートスタジアムに認定され、UEFAチャンピオンズリーグ決勝を開催する資格を有していた[4]。
タイトル
国内タイトル
- 優勝 (2): 1980-81, 1981-82
- 2位 (3): 1979-80, 1987-88, 2002-03
- 優勝 (3): 1909, 1986-87, 2019-20
- 準優勝 (5): 1910, 1913, 1927-28, 1950-51, 1987-88
- 優勝 (1): 1982
- 優勝 (3): 1948-49, 1966-67, 2009-10
- 準優勝 (2): 1940-41, 1942-43
国際タイトル
なし
成績
近年の成績
過去の成績
- 77シーズン プリメーラ・ディビシオン
- 16シーズン セグンダ・ディビシオン
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記録
- 2025年3月1日現在
欧州での記録
欧州の成績
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現所属メンバー
要約
視点
- 2025年3月3日現在
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
リザーブチーム
→詳細は「レアル・ソシエダB」を参照
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
登録外選手
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
歴代監督
→詳細は「Category:レアル・ソシエダの監督」を参照
ホセ・アンヘル・ベラオンド 1918-1923
リッポ・ヘルツカ 1923-1926
ルイス・オルティスデ・ウルビアナ 1926
ベニート・ディアス 1926-1930
ハリー・ロウ 1930-1935
ガスパル・グルチャガ 1939-1941
セバスティアン・シルベティ & フランシスコ・ガンボレーナ 1941-1942
ベニート・ディアス 1942-1951
ホセ・イグナシオ・ウルビエタ 1951-1955
サルバドール・アルティガス 1955-1960
ホセバ・エリソンド 1960
バルタサル・アルベニス 1960-1962
ホセバ・エリソンド 1962
ペリコ・トーレス 1962-1963
アントニオ・バリオス 1963-1964
ロマン・ガララガ 1964-1966
アンドニ・エリソンド 1966-1970
アンヘル・セグロラ 1970-1971
アンドニ・エリソンド 1971-1972
ラファエル・イリオンド 1972-1974
アンドニ・エリソンド 1974-1976
ホセ・アントニオ・イルレギ 1976-1978
アルベルト・オルマエチェア 1978-1985
ジョン・トシャック 1985-1989
マルコ・アントニオ・ボロナト 1989-1991
ハビ・エスポーシト 1991
ジョン・トシャック 1991-1994
サルバ・イリアルテ 1994-1995
ハビエル・イルレタ 1995-1997
ベルント・クラウス 1997-1999
ハビエル・クレメンテ 1999-2000
ペリコ・アロンソ 2000
ジョン・トシャック 2000-2002
ロベルト・オラべ 2002
レイノー・ドゥヌエ 2002-2004
ホセ・マリア・アモロルトゥ 2004-2006
ゴンサロ・アルコナダ 2006
ホセ・マリア・バケーロ 2006
ミゲル・アンヘル・ロティーナ 2006-2007
クリス・コールマン 2007-2008
ホセ・ラモン・エイズメンディ 2008
フアン・マヌエル・リージョ 2008-2009
マルティン・ラサルテ 2009-2011
フィリップ・モンタニエル 2011-2013
ハゴバ・アラサテ 2013-2014
アシエル・サンタナ 2014
デイヴィッド・モイーズ 2014-2015
エウセビオ・サクリスタン 2015-2018
イマノル・アルグアシル 2018
アシエル・ガリターノ 2018
イマノル・アルグアシル 2018-
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歴代所属選手
→詳細は「レアル・ソシエダの選手一覧」を参照
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2023年10月6日、レアル・ソシエダは『株式会社ヤスダグループ』[5]と3年間の戦略的パートナーシップを締結したことを発表した。今回の契約でユニフォームの胸部に同スポンサーのロゴが入る[6][7]。公式サイトでは同グループを「安田財閥によって20世紀に設立」と発表しているが[8]、実際の設立は2023年10月1日であり財閥との関係も不明である[9][10]。
2024年1月11日にはレアル・ソシエダの会長らが来日し、ヤスダ代表の安田慶祐と同社CMOの谷川烈とともに、両者のパートナーシップ締結発表会を開催した[11]。同グループは同年レアル・ソシエダ・ジャパンアカデミースクールを開校、レアル・ソシエダ ジャパンツアーを実現した[12][13]。2025年7月には5年間の新規パートナーシップ契約を締結した[14]。
脚注
外部リンク
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